2013-06-27 18:58:52

教皇一般謁見・カテケーシス(2013.6.5)


親愛なる兄弟姉妹の皆さん、こんにちは 。

今日は、別の機会にも何回か取り扱った、環境問題について考察したいと思います。今日は国連が制定する「世界環境デー」でもあるからです。今年のこの環境デーは、食物の無駄や食糧廃棄をなくすよう強く呼びかけています。

環境や創造界について語る時、わたしの思いは、自ずと旧約聖書・創世記の始まりの部分に向かいます。そこには、神は、地を耕し守るために人間をこの地上に置いたと書かれています (創世記 2,15)。そこで問いが生じます。「地を耕し、守る」とは、一体何を意味しているのでしょうか。わたしたちは本当に地を、創造物を、耕し、守っているのでしょうか。もしかしたら、それを悪用し、無駄にしているのではないでしょうか。

「耕す」という動詞は、土が実りをもたらし、それを皆と分け合うことができるようにと、農民が自分の畑の世話をすることを思い起こさせます。それには、どれほどの注意と熱意と献身が必要なことでしょう。神の創造されたものを耕し守るという課題は、歴史の始まりにのみ神から与えれた命令ではありません。今日のわたしたち一人ひとりに与えられた命令でもあります。これは神のご計画の一部です。それは、世界を責任をもって発展させ、それをすべての人にとって住みやすい場所・庭としなさい、ということなのです。

創造主なる神から人に託されたこの任務のためには、創造界が本来持つリズムと論理を受け入れることが必要と、ベネディクト16世はたびたび注意を促してこられました。それに対して、わたしたち人類は、支配、所有し、思いのままに搾取しようという傲慢に突き動かされています。こうして、わたしたちは創造界を守りも尊敬もせず、それが世話をすべき無償の賜物であることをすっかり忘れてしまうのです。

わたしたちは、大自然に驚き、それを観想し、耳を傾ける態度を失いつつあります。ですから、ベネディクト16世が「神の人間に対する愛のリズム」とも呼ぶものを、わたしたちはもう読み取ることができなくなっているのです。どうしてこのようなことになるのでしょうか。なぜなら、わたしたちは平面的に考え、生き、神から離れているために、神のしるしをもう読めなくなっているのです。

しかし、「耕し、守る」と言うことは、わたしたちと環境の関係だけではありません。実は、人間同士の関係にも関わることなのです。教皇たちは、環境問題と緊密に結ばれている人間社会について語ってきました。今、わたしたちは危機の時代を生きています。環境の中にも危機を見出すことができます。しかし、最も顕著な危機は、人間自身の中に見られます。人類は危険に瀕しています。これは確かなことです。人類は危機に瀕しています。

ですから、人間環境論が緊急に必要とされるのです。危険は重大です、なぜなら問題の原因は奥深く、単純ではないからです。それはただ単に経済問題に留まりません。それは倫理や人類学上の問題ですらあるからです。教会はこのことをすでに何回も強調してきました。多くの人々がそれを「正しい」とか「その通りだ」と言うにも関わらず、体制は何も変わらずそのままです。なぜならそれを支配しているのは、倫理性に欠ける経済や金融システムだからです。

今日、支配しているのは、人間ではなく、お金なのです。何もかもがお金に支配されています。わたしたちの父である神は、この「地球を守りなさい」との命令をわたしたち人間に与えたのであり、お金にそれを命じたのではありません。この命令を受けたのはわたしたちなのです。それなのに人間自身が、利益や消費という偶像の餌食にされているのです。これは「切り捨ての文化」と言えましょう。たとえばコンピューターが壊れるとすれば大騒ぎですが、多くの人の貧しさや困窮、苦しみは日常茶飯事にされてしまうのです。

もしある冬の夜に、この近くのオッタビアーノ通りで、たとえば一人の人が亡くなったとしても、それはニュースにはなりません。世界の各地で、子どもたちに食べるものがないとしても、それはニュースではなく、まるで普通のことであるかのようです。それはあってはならないことです。それにも関わらず、ホームレスの人たちが路上で亡くなったとしても、あたりまえのことになってしまうのです。一方で、ある都市の株式市場の数値が10ポイント下がったということは、一大事として扱われるのです。こうして人間は、不用品のように切り捨てられていくのです。

この「切り捨ての文化」は、一般のメンタリティーにまで広がり、皆を毒しています。人間の命や、人そのものは、もはや第一に尊重し守るべき価値とは見なされず、特に貧しい人や体の不自由な人、これから生まれてくる赤ちゃん、そしてお年寄りなどは、切り捨てられてしまうのです。

「切り捨ての文化」は、食べ物を無駄にしたり、捨ててしまうことにおいても、わたしたちを無感覚にしてしまっています。残念ながら、世界のあらゆる場所で多くの人や家族が空腹や栄養失調に苦しんでいるだけに、これはより非難されるべきことです。

昔、わたしの祖父母の世代は、余った食べ物を何一つ捨てることがないようにと、とても気をつけていました。消費主義がわたしたちを食べ物の日常的な無駄遣いに慣れさせてしまったのです。経済基準とは別の次元で、食卓に対し、わたしたちはもはや正しい価値を与えることができなくなってしまいました。

しかし、これを覚えておきましょう。つまり、食べ物を捨てることは、貧しくお腹をすかせた人の食卓から盗むのと同じだということを。皆さんに食べ物の無駄使いの問題について考え、この問題に真剣に取り組むための方法を見つけるようお願いします。それは貧しい人たちへの連帯と、分かち合いを実現するための手段となることでしょう。

先日、コルプス・ドミニの祝日に、わたしたちは「パンの奇跡」のエピソードに耳を傾けました。イエスは5つのパンと2匹の魚をもって群集を食べさせました。このエピソードの最後の言葉は重要です。「すべての人が食べて満腹した。そして残りのパン屑を集めると、12籠あった」(ルカ 9,17)。イエスは弟子たちに何一つ失わないように頼んだのです。無駄がないようにと。この12の籠についてですが、なぜ12なのでしょうか。これは何を意味するのでしょうか。12はイスラエルの部族の数であり、すべての民族を象徴するものです。これは食べ物が平等に連帯の精神の下に分けられる時、すべての人は必要とされ、すべての共同体はより貧しい人たちの必要を満たしに行くのです。人間環境学と自然環境学は共に歩んでいくべきものです。

自然界を尊重し守り、すべての人に配慮し、無駄と切り捨ての文化に対抗しながら、連帯と出会いの文化を推進することに、皆が真剣に取り組むよう願います。









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