2013-06-27 18:54:46

教皇一般謁見・カテケーシス(2013.6.12)


親愛なる兄弟姉妹の皆さん。

今日は、第2バチカン公会議が教会を「神の民」と定義していることについて考察したいと思います。考察の材料としていくつかの質問をして見ましょう。

1. 「神の民」であるとは、一体何を意味しているのでしょうか。第一に、それは神は特にどの民族にも属していないことを表しています。なぜならわたしたちを招き、その民の一員となるよう呼びかけるのはまさしく神だからです。この神の招きは、何の区別もなく、すべての人々に向けられています。イエスは使徒たちに、排他的なグループやエリート集団を構成するようにとは言いませんでした。イエスは「行って、すべての民ををわたしの弟子にしなさい」と言っています (マタイ 28,19)。聖パウロは、神の民、教会の中には、もう「ユダヤ人もギリシャ人もありません。なぜなら皆イエス・キリストにおいて一つだからです」と言っています(ガラテヤ3,28)。神や教会から遠く感じている人、恐れに囚われている人、無関心な人、変わることなどできないと思っている人にわたしは言いたいと思います。主は、神の民の一員となるように、あなたをも呼び、大きな尊敬と愛を示しているのです。

2. どのようにしてこの民の一員となるのでしょうか。自然の誕生によるのではなく、新たに生まれ変わることによってです。福音書の中でイエスはニコデモに、神のみ国に入るために霊と水によって生まれなければならないと言っています (ヨハネ 3,3-5)。生涯を通じて養い、成長していくべきキリストへの信仰によって、洗礼を通してわたしたちはこの民の中に入れられました。洗礼の時にいただいた信仰をわたしはどうやって大きくしていくことができるのでしょうか。神の民が持ち、わたしもいただいたこの信仰をどうやって成長させることができるのでしょうか。

3. もう一つの問いがあります。神の民の法とは一体どのようなものでしょうか。それは愛の法、主がわたしたちに遺した新しい掟、神と隣人への愛の法です(ヨハネ 13,34)。 しかし、その愛は不毛の感情でも、漠然とした何かでもなく、神を生涯の唯一の主として認めること、あらゆる分裂・対立・不理解・利己主義を乗り越えて他人を真の兄弟として受け入れることです。この新しい掟、わたしたちの中で働く聖霊の掟、愛の掟を実際に生きるために、わたしたちはまだどれ程の道を歩まなければならないでしょう。新聞を読んだり、テレビを見る時、キリスト教徒の間にさえもなんと多くの争いを見ることでしょう。どうしてこのようなことが起きるのでしょうか。 神の民の中にも、街で職場で、どれほど多くの争いが、ねたみや嫉妬のために起こることでしょう。家庭の中でもどれほどの争いがあるでしょう。わたしたちは主にこの愛の掟をよく理解させてくれるよう願う必要があります。本当の兄弟のようにお互いに愛し合うのは、なんと美しいことでしょう。今日、皆で共に一つのことをするのは、なんと美しいことでしょう。たぶん、皆、好き嫌いはあるでしょう。たぶん、わたしたちは誰かに対して怒っているかもしれません。ですから主に願いましょう。「主よ、わたしはこの人に対して怒っています。ですから、わたしは彼のために祈ります」。 わたしたちが怒っている人のために祈るのは、この愛の掟における素晴らしい一歩です。これを実行しましょう。今日、実行しましょう。

4. この神の民の使命はいかなるものでしょうか。それは神の救いと希望を世界にもたらすことです。すべての人々にご自分との友情に招かれる神の愛を知らせることです。パン全体を膨らませる酵母となること、食物を腐敗から守り、味付けする塩となること、そして世を照らす光となることです。わたしたちのまわりを見てください。新聞を読むだけで十分です。そこには悪の存在や、悪魔の働きを見るでしょう。しかし、わたしは大きな声で言いたいのです。「神はもっと強いのです」と。あなたたちはこれを信じますか。神はもっと強いということを。皆で一緒に言いましょう。「神はもっと強いのです」。神がもっと強いのはなぜだか知っていますか。なぜなら神は主だからです。唯一の主だからです。しかし、一つ、付け加えておきましょう。現実は闇です。悪によって印されています。もし、わたしたちが先に、特に自分たちの生活そのものを通して福音の光をもたらすならば、現実を変えることもできます。ローマのオリンピック・スタジアム、あるいはブエノス・アイレスのサン・ロレンソのスタジアムのような競技場を想像して見てください。そこで暗い夜に一人が灯をともしたとすれば、それはやっと見える程度かもしれません。しかし一人だけではなく、7万人以上の観客がいっせいに自分の灯をともすならば、競技場全体が照らし出されることでしょう。わたしたちの生活をキリストの光としましょう。皆で一緒に全世界に福音の光をもたらすことができるでしょう。

5. この民の行き着く先はどこでしょう。行きつく先は、神のみ国です。この神の国は神ご自身によってこの地上で始められ、わたしたちの命そのものであるキリストが再び現れる時に完成される、その時まで広められるべきみ国です (『教会憲章』9)。ですから、最後は主との完全な一致、交わりです。主との親しさ、その神的生命そのものに入ることです。そこでわたしたちは、神の限りない愛、完全な喜びを生きることでしょう。

親愛なる兄弟姉妹の皆さん、御父の愛の大きなご計画によって、教会・神の民であることは、この世に神のパン種であること、しばしば道に迷い、新たに歩み続けるための勇気づけや希望を与える答えを必要としているこの世界に、神の救いをもたらし告げ知らせることを意味します。教会は神の憐れみ、神の希望の場でなければなりません。誰もが受け入れられ、赦され、福音のよい生活に沿って生きよとの励ましを、受けることのできる場でありますように。人が受け入れられ、愛され、赦され、勇気づけられると感じることができるために、教会は誰もが入れるよういつも扉を大きく開いていなければなりません。そして、わたしたちはこの扉を通して、福音を告げ知らせるために出て行かなければなりません。








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