2013-06-13 19:04:25

教皇と生徒たちの一問一答(後編):「危機を読むことを学ぶ」「貧しさは希望の種を蒔くようにと招く」


教皇フランシスコは、6月7日、バチカンでイエズス会系の学校の生徒たちとの集いを持たれた。

この機会に、教皇と生徒たちとの間に交わされた質疑応答(後半部)は以下のとおり。

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少年:僕はイグナチオ教育センター校のエウジェニオ・セラフィーニと言います。短い質問です。パパ様になられる前、神父やイエズス会士になろうと決めた時、どうしてそのような決断ができたのですか。家族や友だちと離れるのは、難しくありませんでしたか?

教皇:いいですか、それはいつでも難しいことです。それはわたしにとっては難しいことでした。簡単なことではありませんよ。しかし、すばらしい時もあります。イエスはあなたを助けてくれますし、ささやかな喜びも与えてくれます。でも、難しい時もあります。そういう時はあなたは一人ぼっちに感じ、心が干からびて、内面の喜びもなくなってしまいます。暗い、心の闇の時もありますし、困難の時もあります。それでも、イエスに従い、イエスの道を行くことはすごく素晴らしいのです。それでバランスを取りながら、前進していくんですよ。そうするともっと素晴らしい状態に到達できるんです。でも誰だって、人生に困難がないなんて、考えてはいけませんよ。わたしも、ここで皆さんに質問しましょう。皆さんはどうしたら困難と共に歩めるか、考えたことがありますか。簡単ではないですよ、そうでしょう?でもわたしたちは、主への信頼とその力をもって前に進まなければなりません。主と一緒なら、できないことはありません。

少女:こんにちは。わたしはナポリのポンターノ校の、フェデリカ・ヤッカリーノです。今のイタリアはとても難しい時期にあると思うのですが、現代の若者たちのため、若者たちの未来のために、何か一言お願いしたいのです。より良い未来のための助け、わたしたち若者への助けになる言葉をお願いします。

教皇:あなたはイタリアは難しい時期にあると言いましたね。そのとおり、困難に見舞われています。イタリアだけではありませんね。世界全体が、今、危機に直面しています。危機、そのものが悪いのではありません。危機はわたしたちを苦しめますが、わたしたち、特にあなたたち若い人たちは、危機を読むことを学ばなければなりません。この危機は何を意味しているのか?この危機から脱するために、その助けとして自分は何をしたらよいのか?今、わたしたちが体験しているこの危機は、「人間的危機」です。でも人はこう言うでしょう。「これは経済危機だ」「これは労働危機だ」と。確かにそうです。でもそれはなぜ起きたのでしょうか?なぜこの労働の危機や、経済の危機の問題が生まれたのか、それは人間をめぐる重大な危機の結果です。今、危機に瀕しているのは、人間の価値なのです。ですから、わたしたちは人間を守る必要があるのです。これはすでに3回ぐらいお話ししたことですけれども、今日ここで4回目を話しましょう。わたしはかつて中世、1200年代のラビの話をしました。このラビは当時のユダヤ教徒たちに、バベルの塔の話を説明していました。バベルの塔の建設は容易なことではありませんでした。彼らはレンガを焼かなければなりませんでした。レンガはどうやって作りますか?泥と藁を探してきて、それらを混ぜて、かまどに入れて焼くのです。それは重労働です。この重労働の後では、レンガは本当に宝物同然ですよ。それから、バベルの塔を築くために、そのレンガを上に運び上げるのです。でも、レンガが下に落ちたりしたら、それはもう悲劇でした。そのレンガを落とした職人は罰せられたのです。それは悲惨です!いいですか、もし、落ちたのが人間だったら、何も問題ないんですよ!今日、わたしたちが体験している危機とは、これなのです。これですよ!それは人間の危機です。今日、人間はもはや重要ではありません。重要なのはお金なのです。神は世界を、すべての自然を創造し、それらを託すために人間を、男と女を創られました。神はそれらをお金に託されたのではありません。これは危機です。危機の中で人間は、いいですか、これは本当ですよ、人間は奴隷なのです!人を奴隷化するこの経済と社会の構造から、わたしたちは解放されなければなりません。そして、これが皆さんの課題なのです。

少年:僕はフランチェスコ・ヴィンです。メッシーナの聖イグナチオ学院から来ました。今までにシチリアに来たことがありますか?

教皇:ありません。2通りに答えられますね。「ありません」。または「いまのところは、ありません」ということですね。

少年:もし来られるなら、僕たち待っています!

教皇:ちょっと聞いてください。わたしはシチリアについて、素晴らしい映画を知っていますよ。10年前に見たんですが、「カオス」という映画です。Kで始まるカオスですよ。ピランデッロの4つの物語を題材にしたもので、とてもきれいな映画です。シチリアの美しさ全部を見ることができました。それはわたしがシチリアについて知ってる唯一のものですが、素晴らしかったですよ。

若い男性:わたしは教師で、ヘスス・マリア・マルティネスといいます。(会場の拍手)

教皇:あなたの応援団がいますよ。

若い男性:わたしはスペイン語の教師です。と言いますのは、わたしはスペイン人で、サン・セバスティアンの出身です。宗教の時間も受け持っています。お伝えしたいのですが、先生や教授たちは、皆、パパ様のことをとてもお慕いしています。本当です。誰を代表してというわけではありませんが、今ここでイエズス会の学校で教育を受けた多くの卒業生や、いろいろな人たち、教師も含めた我々大人たちを見て、イエズス会の学校で働く大人として、わたしたちの政治や社会への参加について質問したいと思います。今日のイタリアや世界において、わたしたちのイエズス会的、福音的と言える仕事、社会参加とは、どうあるべきでしょうか、何かお言葉をいただけますか。

教皇:わかりました。キリスト教徒にとって、政治に関わることは一つの義務です。わたしたちキリスト者は、ピラトのように振舞うことはできません。手を洗って問題と関わらないというわけにはいかないのです。わたしたちは政治の中に入っていかなければなりません。なぜなら、政治は共通善を追求するという意味で、慈愛の高度な表現の一つだからです。ですからキリスト者の信徒は政治の中で働く必要があります。「でもそれは簡単ではない」とあなたは言うでしょう。でも、神父になることも簡単ではありませんよ。人生には簡単なことなどありません、簡単ではないですよ。政治は汚すぎると言います。でもそこで思うのです。なぜ汚くなったのでしょうか?キリスト者がその中に福音精神をもって入っていかなかったからですか?あなたにこれを考えてもらいたい。「誰々のせいだ」と言うのは簡単でしょう?では、自分は何をするのか?ということです。それは義務ですよ!共通善のために働くことは、キリスト者の義務です!そして、そのための道が政治であることはよくあります。別の道もあります。たとえば、先生になることです。これは別の道です。共通善のための政治活動は一つの道です。そうでしょう?

若い男性:わたしはジャコモと言います。今日、わたしは、実はたくさんの生徒たちを連れて来ています。彼らは学生宣教連盟の生徒たちです。これはすべての学校に学生宣教のグループがあって、それをいわばまとめた運動です。教皇様、最初に、わたしとすべての生徒から感謝申し上げます。わたしも最近感じたことですが、今まで探し回らなければならなかった、あの希望のメッセージを、みんなもやっと見つけたような気がしているからです。今、そのメッセージを身近に感じられることは、われわれにとってとても力強い体験です。わたしの質問はこれです。教皇様はご自身の経験からよくご存知のことと思いますが、わたしたちもいろいろな種類の貧しさを体験し、それと共存することを学んできました。たとえば、物質的な貧しさ、これはわたしたちが姉妹関係を結んだケニアにおける貧しさを思い出します。これに対して、霊的な貧しさもあります。これについてはルーマニアの、政治の変化による歪みや、アルコール中毒などを思い出します。ここで、教皇様にお伺いしたいのです。わたしたち若者はこうした貧しさとどのように共存できるのでしょうか。どのような態度を持つべきでしょうか?

教皇:第一に、若い皆さんに言いたいことがあります。希望を奪われてはいけません。どうかお願いです。それを奪わせてはいけません。誰があなたから希望を奪うのでしょうか?それは世間の風潮、豊かさ、虚栄心、傲慢、プライド、こうしたすべてがあなたから希望を奪うのです。ではどこに希望はあるのでしょうか?それは貧しいイエスの中です。イエスは、わたしたちのために貧しくなられたのです。あなたは貧しさについて話しましたね。貧しさは希望の種を蒔くようにと招きます。自分もより多くの希望を得るためです。これは理解するのが難しいかもしれませんね。アルペ神父はある時、イエズス会の社会研究センターに手紙を書きました。どうしたら社会問題を勉強できるかを書いたんですね。最後にわたしたち皆にこう言っていました。「貧しい人たちとの経験無しでは、貧しさについては語れません」。あなたは姉妹関係のケニアのことを言っていましたね。貧しい人たちとの体験です。抽象的な貧しさについて話すことはできません。抽象的な貧しさは存在しません!貧しさとは、血肉を持った貧しいイエスです。貧しさは、おなかをすかせた子どもや、病人、不正な社会構造の中にあるのです。血肉を持ったイエスに会いに行きなさい。快適な生活やその風潮に希望を奪われてはいけません。こうしたものは、最終的にあなたを人生で何者にもしてくれません。若い人は高い理想に賭けるべきです。そうすべきです。では希望はどこに見つけるのでしょうか?真の貧しさの中にある、苦しむ、血肉を持ったイエスの中にです。希望と貧しさの二つには関係があるのです。

教皇:(祈りの後で)今から、皆さんと、皆さんの家族に、主の祝福をおくります。








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