2013-05-29 19:19:56

「神の家族としての教会」をテーマに、教皇一般謁見


教皇フランシスコは、バチカンで29日、水曜恒例の一般謁見を行われた。

謁見中のカテケーシス(教会の教えの解説)で教皇は、教会の神秘についての考察を始めるにあたり、この日は「神の家族としての教会」をテーマに取り上げられた。

教皇のカテケーシスは以下のとおり。

********

親愛なる兄弟姉妹の皆さん、こんにちは。

先週の水曜日の一般謁見では、わたしは聖霊と教会の深い絆について強調しました。今日からは、教会の神秘、わたしたちが生き、その一部を担っているその神秘について、いくつかのカテケーシスを開始したいと思います。そして、それを第2バチカン公会議の公文書にある表現を交えながら行ないたいと思います。

今日は最初のテーマ「神の家族としての教会」について考えましょう。
この数ヶ月、わたしは何度も「放蕩息子のたとえ」を引用し、憐れみ深い御父について説いてきました(ルカ 15,11-32)。
下の息子は父の家を後にしましたが、すべての財産を使い果たし、自分が間違っていたことを悟って、父のもとに帰ることを決意します。しかし、もはや息子と呼ばれるにふさわしくないと考えた彼は、雇い人として受け入れてもらおうとしました。ところが、父は走って出迎え、彼を抱擁し、息子としての尊厳を取り戻させ、彼のために祝宴を開きました。このたとえは、福音書の他のたとえと同様に、人類に対する神のご計画をよく表しています。

神のご計画とは何でしょうか。それは、わたしたちすべてを神の子として一つの家族にし、この中で誰もが神を近くに感じ、神から愛されていると知ることができるように、福音書のたとえのごとく神の家族としての温かさを感じることができるようにとの計画です。教会はこの大きな計画の中にその根源を持っています。教会はある種の人々の合意によって生まれた組織ではなく、ベネディクト16世が何度も指摘されたように、神の御業であり、まさに歴史の中で次第に実現されるこの愛の計画から生まれたものなのです。教会は、すべての人間をご自分との一致、友情、何より神の子としてご自身の命に参与するよう招かれる、神の御意志から生まれました。

教会は、ギリシャ語で「エクレジア」と言いますが、その言葉は「召集」を意味するものです。神はわたしたちを呼び出されます。そしてわたしたちが個人主義から、自分に閉じこもる傾向から外に出て、ご自分の家族に加わるようにと招かれます。この召し出しは、神がなさった創造と同じ起源を持つものです。神がわたしたちを創造されたのは、神と深い友情を生きるためです。そして神や他の人々や被造物との関係が壊れた時も、神はわたしたちを見棄てることはありません。

救いのすべての歴史は、人間を探し出し、ご自分の愛を与え、迎え入れる神の歴史です。神はアブラハムを群集の父として呼び、すべての民族を擁する契約を結ぶためにイスラエルの民を選ばれ、時が満ちた中で御子を遣わしました。それは、ご自分の愛と救いの計画が全人類との新しい永遠の契約の中で実現するようにと願われてのことでした。

福音書を読む時、わたしたちはイエスがご自分の周りに小さな共同体を集め作り、その共同体がイエスの言葉に耳を傾け、イエスに従い、その歩みを共にし、イエスの家族となっている様子を見ることができます。この共同体をもとにイエスはご自身の教会を準備され、築かれたのです。

ならば、教会はどこに生まれるのでしょうか。それは十字架の愛の最高の行為から、聖体と洗礼の象徴である血と水がほとばしるイエスの開いたわき腹から生まれるのです。神の家族、教会において、その活力は神の愛です。神の愛は、神と隣人のすべてを分け隔てなく愛することの中に実現されます。教会とは、互いに愛し合い、互いに愛される家族です。では、教会はいつ自分の存在を表すのでしょうか。わたしたちは先週の日曜日、聖霊降臨にそれを祝いました。教会が自分を表す時、それは聖霊の賜物が使徒たちの心を満たし、福音を告げ、神の愛を広めるために外に出て歩き始めるよう促す時なのです。

いまだに「キリストはいいが、教会は嫌だ」という人がいます。それは「神は信じるが、神父は信用しない」という人たちと同じです。しかし、教会こそがわたしたちを教会に導き、神に導くのです。もちろん人間的な側面もあります。教会の構成員である司牧者と信者たちにも、不完全なところや、罪があります。教皇でさえもそれがたくさんあります。しかし、素晴らしいのは、わたしたちが罪びとであると気づく時、常に赦してくださる神の憐れみに出会うことです。これを忘れてはなりません。神はいつも赦してくださり、わたしたちをその赦しと憐れみの愛の中に受け入れてくださいます。罪は神への侮辱という人たちもいますが、それはまた神の憐れみという別のもっと素晴らしいことに気づくための謙遜を得る機会でもあります。

今日、自問してみましょう。自分はどれだけ教会を愛しているだろうかと。自分は教会のために祈っているだろうか?自分を教会の家族の一員だと感じているだろうか?教会が誰もが受け入れられ、理解され、人生を新たにする神の憐れみと愛を感じられる共同体とするために、自分に何ができるだろうかと。

信仰は賜物であり、個人に関する行為でありますが、神はわたしたちを家族として、教会として、共に信仰を生きるよう招いておられます。特にこの信仰年にあたり、わたしたちの共同体、全教会がますます、神の温かさを生き、伝える、真の家族となるように、主に願い求めましょう。








All the contents on this site are copyrighted ©.