2013-04-19 15:50:42

教皇一般謁見・カテケーシス(2013.4.10)


親愛なる兄弟姉妹の皆さん、こんにちは。

前回のカテケーシスでは、イエスの復活の出来事を考察し、そこにおける女性たちの特別な役割に注目しました。

今日は、イエスの復活の救いの力について考えて見ましょう。わたしたちの生活にとってイエスの復活はどのような意味を持つのでしょうか?なぜ復活なしでは、わたしたちの信仰は虚しいものとなってしまうのでしょうか?

わたしたちの信仰はキリストの死と復活に基づいています。それは家が土台の上に建てられているのと同じことです。その土台が崩れるなら、家全体も崩れてしまうのです。

十字架上でイエスはわたしたちの罪を背負いながら自らを捧げ、死の淵に下り、復活において罪に勝利することでそれを取り去り、わたしたちが新しい命に再び生まれるための道を開いてくださいました。

聖ペトロはその第一の手紙の冒頭でこのことを要約して表現しています。「わたしたちの主イエス・キリストの父である神が褒め称えられますように。神はその大きな憐れみにおいて、わたしたちを新たに生まれさせ、イエス・キリストの死者の中からの復活を通して、生き生きとした希望を与え、朽ちず、汚れず、傷むことのない財産を受け継がせてくださいました」(1ペトロ1,3-4)。

使徒ペトロは、イエスの復活によってまったく新しい何かが起きたと言っています。それは、わたしたちが罪から解放され、神の子となり、生まれ変わった、すなわち新しい命を得たということです。それはいつわたしたちに実現されるのでしょうか?それは洗礼の秘跡においてです。

古代、洗礼は普通、水に体を沈める形で行なわれていました。洗礼を受ける者は、服を置いて、洗礼堂の大きな水盤の中に降り、司教または司祭は、受洗者の頭に3回水を注ぎ、父と子と聖霊の名によって洗礼を授けていました。そして洗礼を受けたばかりの人は水盤から出て、新しい、白い衣をまといました。それはつまり、キリストの死と復活の中に浸ることで、新しい命に生まれたということでした。彼は神の子となったのです。

聖パウロはローマの信徒への手紙でこのように記しています。「あなたがたは神の子とする霊を受け、この霊によってわたしたちは『アッバ、父よ』と呼ぶのです」(ローマ 8,15)。
まさにわたしたちが洗礼の時に受けた霊が、わたしたちに『父よ』と呼ぶことを教え促すのです。むしろ、アッバとはお父さんです。こうしてわたしたちの神は、我々にとってお父さんとなるのです。

聖霊は、わたしたちの中に神の子というこの新しい立場を実現します。これこそイエスの過ぎ越しの神秘がわたしたちに与える最も大きな賜物です。神はわたしたちが過ちを犯した時でさえも、わたしたちを子として扱い、理解し、赦し、抱擁し、愛してくださいます。

旧約聖書でイザヤ預言者は、たとえ母親が自分の子を忘れるようなことがあっても、神がわたしたちを忘れることは決して片時もない(イザヤ49,15)と明言しています。これは素晴らしいことです。

しかしながら、神との子としての関係は、わたしたちの生活の片隅に隠しておく宝のようなものであってはなりません。それは御言葉に耳を傾け、祈り、特に赦しと聖体の秘跡などに与り、慈愛の業を行なうことで、毎日育てていくものです。

わたしたちは神の子として生きることができるのです。神の子としてです。これこそがわたしたちの尊厳です。真の子として振舞うのです。これは毎日キリストに変容され、キリストのようになることです。キリスト者として生き、自分たちの限界と弱さの中でもキリストに従うように努力するということです。

神を隅に押しやり、自分を中心に置こうとする誘惑は常にすぐそこにあり、罪の経験はキリスト教的生活と神の子としての存在を傷つけます。だからこそ、信仰の勇気を持つべきです。「神はいらない、自分にとって重要ではない」などという考えに引き込まれてはなりません。まったく逆なのです。神の子として振る舞い、自分たちの堕落や罪に失望せず、神に愛されていると知ることによってのみ、我々の生活は刷新され、平安と喜びに元気づけられるのです。神はわたしたちの力です!神はわたしたちの希望です!

親愛なる兄弟姉妹の皆さん、わたしたちがまず最初にこの揺るがぬ希望を持ち、その希望が皆にはっきりと明るく目に見えるためのしるしとならなくてはいけません。復活の主は、減ることも、欺くこともない希望です(ローマ 5,5)。失望させられることのない希望、それは主の希望です。

わたしたちの人生の中で何度希望がかき消され、何度心に抱いた期待が実現されなかったことでしょうか。わたしたちキリスト者の希望は、この地上において、強く、確かで、堅固です。この地上を歩むよう神はわたしたちを呼ばれました。それは永遠に向かって開いています。なぜならそれは神の上に、常に誠実な神の上に築かれているからです。これを忘れてはいけません。神は誠実な方です。神はわたしたちにいつも誠実です。

朽ちない宝のために、信仰の恵みをもって、洗礼においてキリストと共に復活することで、わたしたちは神に関することを第一に求め、神をより思い、より祈るようになります。キリスト者であることは、命令に従うというよりは、キリストの中にあり、キリストのように考え、行動し、愛するということです。それは、キリストにわたしたちの人生を明け渡し、それを変容し、悪と罪から解放してもらうということなのです。

親愛なる兄弟姉妹の皆さん、わたしたちの抱いている希望について説明を求める人には(1ペトロ3,15)復活のキリストを指し示しましょう。み言葉を告げながら、そして特に復活したわたしたちの生活をもって、復活の主を示しましょう。

神の子としての喜び、キリストにおいて生きることで与えられる自由を皆に示しましょう。その自由は、悪と罪と死への隷属からの真の解放です。祖国である天国を見上げることで、わたしたちの仕事や毎日の労苦においても、新しい光と力を得ることができるでしょう。それは、しばしば眼差しを上げることさえできない、もはや神を見上げることのできない現代の世界に対し、わたしたちがなすべき貴重な奉仕です。








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