2013-04-03 17:37:28

教皇一般謁見・カテケーシス(2013.4.3)


親愛なる兄弟姉妹の皆さん、こんにちは!

今日は、「信仰年」のカテケーシスに戻りましょう。使徒信条の中でわたしたちはこの言葉を繰り返します。「聖書にあるとおり、三日目に復活し」。これこそ、今わたしたちが祝っている出来事です。キリスト教のメッセージの中心である、イエスの復活は、その最初から響き渡り、わたしたちの時代に至るまで連綿と伝えられてきました。

聖パウロはコリントの信徒への手紙でこう言っています。「わたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また聖書に書いてあるとおりに三日目に復活したこと、ケファに、そして十二人に現れたということです」(1コリント15,3-5)。

この簡潔な信仰宣言は、復活したイエスのペトロと十二使徒への最初の出現を語りながら、まさに「過ぎ越しの神秘」を告げるものです。

イエスの死と復活はわたしたちの希望の真の中心です。イエスの死と復活におけるこの信仰なくしては、わたしたちの希望は弱まるどころか、希望ですらなくなってしまうでしょう。イエスの死と復活がわたしたちの希望の中心なのです。

使徒パウロは強調します。「キリストが復活しなかったならば、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたはいまだ罪の中にあることになるのです」(1コリント15,17)。

残念ながら、しばしばイエスの復活への信仰をかげらせようという試みがあり、信者の間にさえ疑念が入りこむことがあります。これはわたしたちが言うところの、「薔薇水のような信仰」というものです。強い信仰ではないのです。これは表層的な考えや、時には信仰より大切だと思い込んでいる多くのことに心を奪われた結果としての無関心、あるいは平板な人生観によるものです。

しかし、復活こそが大きな希望にわたしたちを開くのです。それは復活が、神の永遠の未来、満ち満てる幸福、悪と罪と死は打ち負かされたという確信にわたしたちの人生と世界を開くからです。

そして、これは日常生活の現実をより信頼をもって生き、それに勇気と積極性をもって取り組むことを可能にします。キリストの復活は、この日常の現実を新しい光で照らします。キリストの復活はわたしたちの力です!

ところで、キリストの復活の真理はどのようにわたしたちに伝えられたのでしょうか?新約聖書には2種類の証言があります。いくつかは信仰告白の形、すなわち信仰の中心を示す要約的な形を持つものです。他方は、復活や復活に関連した出来事を語る形を持つものです。

最初の、信仰告白の形をとるものは、例えば先ほど聞いた聖パウロのコリントの信徒への手紙や、同じく聖パウロのローマの信徒への手紙の一節などです。「口で『イエスは主である!』と公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるだろう」(ローマ10,9)。

教会のその最初の歩みから、イエスの死と復活における信仰は固く明確なものでした。しかし、今日は特に2番目の、福音書に見る物語形式の証言について考えてみたいと思います。中でも、この出来事の最初の目撃者が女性たちであることは注目すべきです。

明け方、婦人たちはイエスの体に油を塗るために墓に行き、最初のしるしを見つけました。墓は空でした(マルコ16章)。そして、そこで出会った神の御遣いは、こう言いました。「十字架につけられたナザレのイエスはここにはおられない。復活されたのだ」。

愛に促された女性たちは、この神の御遣いの言葉を信仰をもって受け入れることを知っていました。これを信じ、すぐに他の人に伝え、自分のものだけにするということはありませんでした。彼女たちは伝えました。イエスが生きておられることを知った喜び、心に再び広がる希望を抑えることはできなかったのです。

これはわたしたちの生活の中にも起きるべきことです。キリスト者である喜びを感じましょう!わたしたちは悪と死に打ち勝った復活の主を信じています!わたしたちの生活のあらゆるところにこの喜びと光をもたらすために「外に出る」勇気を持っています!キリストの復活はわたしたちの最も大きな確かさです。それは最も大切な宝です!この宝を、この確信を、誰かに分け与えないでいられるでしょうか。これはわたしたちだけのものではありません。それは伝えるもの、他人に分け与え、共有するものです。これがわたしたちの証しです。

もう一つの要素を指摘したいと思います。新約聖書の信仰宣言において、復活の証人として、男性たち、すなわち使徒たちだけが取り上げられ、女性たちは取り上げられていません。これは、当時のユダヤ教の掟にとって、女性と子どもたちは信頼に値する証しを立てることができなかったからです。しかし、実際は、福音書において女性たちは重要で本質的な役割を帯びているのです。

ここで、わたしたちは復活の歴史性に寄与する要素を得ることができます。もし復活が捏造された出来事ならば、当時の社会背景からいって、女性の証言はありえなかったからです。しかし、福音書記者たちは単純に起きたことを語っています。最初の証言者は女性たちであったと。これは神は人間の基準で物事を選ばないということです。イエスの降誕の最初の証人は羊飼いたちでした。彼らは素朴で謙遜な人たちです。そして、イエスの復活の最初の証人は女性たちだったのです。

これは素晴らしいことです。これは女性たち、母親たち、お祖母さんたちの小さなミッションです。子どもや孫たちに「イエスは生きている。生きておられる。復活されたのだ」と証しするのです。お母さん、女性たち、どうかこの証しをしてください!

神にとって重要なのは心です。わたしたちがどれだけ神に心を開いているか、子どものように神に信頼しているかということです。しかし、これはまた、教会と信仰の歩みにおいて、あの婦人たちのように、わたしたちも主に扉を開く特別な役割を持ち、主に従い、その御顔を伝え、その信仰の眼差しがいつも素直で深い愛に満ちているかということを考えさせるものです。

使徒たちと弟子たちは信じるのに苦労しました。女性たちは違います。ペトロは墓まで走りましたが、空の墓を見たところで留まりました。トマスは信じるためにイエスの御傷に手で触れなければなりませんでした。わたしたちの信仰の歩みにおいても、神がわたしたちを愛しておられると知り、感じることは重要です。神を愛することを恐れないでください。信仰は、口と心で、言葉と愛で、宣言するものです。

婦人たちの前に現れた後、イエスは他の人々にも現れました。イエスは新しい方法で存在されます。イエスは十字架につけられましたが、その体は栄光に満たされました。イエスは地上の命に戻ることなく、新しいあり方で帰ってこられたのです。

最初、人々はイエスを認められず、その言葉と行為によって目を開かれました。復活の主との出会いは人を変容し、信仰に新しい力、強固な基礎を与えます。

わたしたちにも、復活の主の存在を知るための、多くのしるしが与えられています。聖書、聖体、その他の秘跡、慈愛(カリタス)、復活の主の光をもたらす愛の行為です。この世界において、わたしたちを通して、死のしるしが命のしるしに取って代わるように、キリストの復活に照らされ、その力に変容されされましょう。

わたしは、この広場にたくさんの少年、少女たちを見ました。皆さんに言いましょう。この確信を常に持ってください。「主は生きておられ、わたしたちの人生の隣を歩いておられる」と。これが皆さんのミッションです。この希望を抱いて進むことです。この希望に錨(いかり)を下ろしてください。これは天と繋がった錨です。ロープをしっかり握って、よく繋がって、この希望を離さずにいましょう。皆さんはイエスの証し人です。イエスは生きておられるという証しを伝えてください。これは戦争や悪や罪のために少しばかり年老いてしまった世界に希望をもたらすことでしょう。若者たち、頑張ってください!








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