2013-03-30 14:38:17

聖金曜日:教皇「イエスの十字架は、愛・憐れみ・赦しの御言葉」



29日、キリストの十字架上での死を記念する「聖金曜日」、夜からローマ市内のコロッセオで、教皇フランシスコと共に「十字架の道行き」が行われた。

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教皇はこの「十字架の道行き」に先立ち、「聖金曜日」のもう一つの重要な伝統行事、「主の受難の典礼」を、同日夕方バチカンの聖ペトロ大聖堂でとり行われた。

儀式では、イエスが裏切られ逮捕されてから、死刑判決を受け、十字架上で死に、葬られるまでの場面が朗読され、教皇付説教師ラニエーレ・カンタラメッサ神父の説教と、「十字架の崇敬」がこれに続いた。

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午後9時過ぎ、コロッセオで行われた十字架の道行きには、ローマ市民をはじめ、世界各国の巡礼者が参加。コンスタンティヌス凱旋門やフォロ・ロマーノが闇に浮かび上がる中、人々はろうそくの火を手に、イエスの受難の各場面の朗読に耳を傾け、祈り、黙想した。

毎年の十字架の道行きでは、参加者の黙想を助けるためのテキストが用意されるが、今年は、アンティオキア・マロン典礼総主教のベカラ・ブトロス・ライ枢機卿の指導のもと、レバノンの青年信者たちがこれを準備した。

代表の信者、神学生、修道者らが掲げる十字架は、コロッセオから出発し、黙想の進行と共に、教皇が祈りながら待つパラティーノの遺跡側へと向かった。

高台から説教された教皇は、「イエスの十字架」を、神の悪に対する答え、またわたしたちへの神の愛と憐れみのしるしとして明示。悪に善をもって答えながら、イエスと共に十字架を背負い、愛そのものであるイエスに信頼して、十字架と共に毎日を歩んでいこうと、皆に呼びかけられた。

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十字架の道行きにおける、教皇フランシスコの説教は以下のとおり。

「この深い祈りの時に、多くの皆さんが参加してくださったことに感謝します。また、特に病気の方やお年寄りをはじめ、通信メディアを通してわたしたちと一致してくれたすべての人々に感謝します。

多くの言葉を費やしたくはありません。この夜、唯一残るべき言葉、それは「十字架」そのものです。「イエスの十字架」、この御言葉をもって、神は悪の世界に答えられたのです。

時に、神は悪に答えることなく、沈黙を守っているように思われることがあります。しかし実は、神は話されたのです。神は答えられました。神の答えは、イエスの十字架だったのです。それは、愛、憐れみ、赦しの御言葉です。また、それは裁きでもあります。神はわたしたちを愛しながら、裁かれます。これを忘れないでください。神はわたしたちを慈しみながら、裁かれるのです。

もし、わたしが神の愛を受け入れるならば、わたしは救われ、それを拒むならば、罪に定められます。それは神によるのではありません、そうさせるのは自分です。なぜなら、神は人を罪に定められることなく、ただ愛され、救われるのみだからです。

親愛なる兄弟の皆さん、十字架の言葉は、わたしたちの中、そのまわりに働く悪の力に対する、キリスト者の答えでもあります。キリスト者は悪に善をもって答え、イエスのように、十字架を背負わなければなりません。

今晩、わたしたちはレバノンのわたしたちの兄弟たちの証しを聞きました。これらの素晴らしい観想と祈りを書いたのは彼らです。この黙想の準備と、特に皆さんがわたしたちに与えてくださった証しに、心から感謝します。教皇ベネディクト16世がレバノンを訪問された際、わたしたちはかの地のキリスト者たちの一致と、イスラム教や他の宗教の多くの人々との友情の素晴らしさやその力を目にすることができました。これは中東と世界全体にとっての希望のしるしです。

では、毎日の生活における十字架の道行きを続けてまいりましょう。十字架の道を一緒に進んでいきましょう。この愛と赦しの御言葉を心に留めながら歩んでいきましょう。イエスの復活を待ちながら歩いていきましょう。イエスはわたしたちを非常に愛しておられます。イエスは全部が愛なのです。」








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