2013-03-20 16:36:52

教皇フランシスコの報道関係者への言葉(2013.3.16)


「親愛なる友の皆さん

わたしの教皇職の始めにあたり、皆さんとお会いできることをうれしく思います。先月11日の、わたしの尊敬する前任者ベネディクト16世の驚くべき退位公表から始まった、これほどにも中身の濃い日々に、皆さんはここローマで仕事をされました。

マスメディアの役割は、最近常に成長を続け、現代の歴史の出来事を世界に語る上で欠かせない存在となりました。これらの日々に皆さんの行われた質の高い仕事に、特別に感謝したいと思います。皆さんは働きました、そうでしょう!よく働きましたとも!この日々、カトリック界をはじめ世界の目は、永遠の都ローマ、中でも聖ペトロの墓をその重心とする、この場所に向けられました。この数週間に皆さんは、教皇庁や教会、その儀式や伝統、その信仰、そして特に教皇の役割とその任務について語る機会を持ったことでしょう。

教会にとって歴史的なこれらの行事を、そう読まれるべき視点、すなわち信仰という視点から正しく捉え、報道することを知っていた人々に、特別な深い感謝を表したいと思います。

歴史上の出来事は、大抵いつも複雑な解釈を必要とします。時には、信仰という次元をも理解しなくてはいけないこともあります。教会における出来事は、もちろん政治・経済のように複雑ではありません!しかしそれは、その奥に特殊な性質を持っています。それはある種のカテゴリー、世間的な、とでも言いますか、その論理に属さない特性を持っているだけに、それを理解し、広く異なる大衆に伝えるのは容易ではないのです。

「教会は政治的性質を持たず、霊的性質を持つもの」、そしてその本質とは「イエス・キリストとの出会いに向かう神の民の歩み」であると強調。この見方を通してこそカトリック教会の行なうことを理解できると話された。

実際、教会はそれ自体、人間の、また歴史上の組織でもあるわけですが、それは政治的性質を持たずに、本質的に、霊的性質のものなのです。その本質とは、イエス・キリストとの出会いに向かって歩む神の民、聖なる神の民なのです。この見方を通してこそ、カトリック教会の行なうことを理解できるのです。

キリストは教会の司牧者ですが、キリストの現存は人間の自由を通して歴史の中に入ってきました。これらの人間の中で一人が、その代理人、使徒ペトロの後継者として選ばれます。しかし、キリストが中心であり、ペトロの後継者が中心ではありません。中心はキリストなのです。キリストこそが本質的な基準点であり、教会の心臓なのです。キリストなしには、ペトロと教会は存在せず、存在する理由もないのです。ベネディクト16世が何度もおっしゃったように、キリストは現存し、ご自分の教会を導かれます。これまで起きたことすべての主役は、つまるところは、聖霊です。聖霊がベネディクト16世の教会のためを思うゆえの意志を促し、聖霊が枢機卿たちを祈りと選挙の中で導いたのです。
親愛なる友の皆さん、ここ数日の出来事の中心に焦点を合わせるためには、こうした見方、解釈を覚えておくことが大切です。

ここで、皆さんのここ数日のお仕事に改めて心からのお礼を申し上げたいと思います。それは骨の折れる仕事であり、教会の真の性質と、その世界における歩み、その美徳と罪、教会を導く霊的動機をよりよく知り、理解するための招きでもありました。

もちろん、教会は皆さんの貴重な仕事の上での大きな関心であることは確かでしょう。皆さんは、この時代が希望し要求することを感知し、それを表現し、現実を読み取るための材料を提供する能力をお持ちです。皆さんの仕事には、他の多くの職業と同様に、勉強や、感受性、経験が必要とされますが、真実なこと、良いこと、美しいことに対する特別な関心を要します。これはわたしたちを特に近づけるものです。なぜなら教会はそれ自体がまさに、真・善・美を伝えるために存在しているのです。わたしたちは、皆、自分自身を伝えるためではなく、生きる上でのこの3つの本質、真・善・美を伝えるために呼ばれているのです。

ローマ司教がなぜ自分をフランシスコと呼ぶことを望んだのか、それを知らない人たちがいました。ある人はフランシスコ・ザビエル、またはフランシスコ・デラ・サール、あるいはアッシジのフランシスコではないかと考えました。皆さんに教皇名をめぐるいきさつをお話ししましょう。

選挙の時、わたしの隣にサンパウロ名誉大司教で教皇庁聖職者省元長官でもあるクラウディオ・フンメス枢機卿が座っていました。大事な友人です、とても親しい友人ですよ!だんだん状況が危なくなってきた時、彼はわたしを勇気付けてくれました。得票が3分の2に達した時、お決まりの拍手が起こりました、なぜなら教皇が選ばれたからです。フンメス枢機卿はわたしを抱擁し、接吻して言ったのです。「貧しい人たちを忘れてはいけない」と。

その時、この言葉が頭に刻まれたのです。「貧しい人たち、貧しい人たち」。すると、貧しい人々という言葉から、すぐにアッシジの聖フランシスコを連想しました。それから、すべての開票が終わるまで、戦争のことを考えていました。フランチェスコは平和の人です。こうしてこの名前が心の中に入ってきたのです、「アッシジのフランシスコ」。

アッシジのフランシスコは、わたしにとって清貧の人、平和の人、神が創造された天地を愛し、守る人です。今、わたしたちは被造物に対してあまりよい関係ではないでしょう?フランシスコは、この平和の精神をわたしたちに与えてくれる人です。清貧の人...、ああ、貧しい人のための清貧な教会をわたしが望むように!

この後、何人かがいろいろなことを言いました。「あなたはハドリアヌスと名乗るべきだ。なぜならハドリアヌス6世は改革者だった。改革しなくては 云々」。別の人はこう言いました。「だめ、だめ、あなたの名前はクレメンスにするべきだ」「それはまた、なぜ?」「クレメンス15世。これでイエズス会を解散させたクレメンス14世を見返すことができる!」。まあ、そんなやりとりなのですが...。

皆さんのことをとても大切に思っています。あなたがたのなさったすべてのお仕事に感謝します。そして、皆さんのお仕事を思います。皆さんが落ち着いて、実り多い仕事をし、イエス・キリストの福音と教会の現実を常によりよく知ることができますように。福音宣教の星、聖母マリアの取次ぎに皆さんを託します。皆さんとご家族の繁栄をお祈りします。すべての方々に心からの祝福をおくります。ありがとう。

わたしは、心からの祝福を与えると皆さんに申し上げました。皆さんの多くはカトリック信者ではなく、無宗教の方もおられることでしょう。ですから、皆さん一人ひとりの考えを尊重しながら、しかし、皆さん一人ひとりが神の子であると知りつつ、この心からの祝福を沈黙のうちに与えたいと思います。」








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