2013-01-02 18:48:38

2012年降誕祭:深夜ミサにおける教皇の説教


親愛なる兄弟姉妹の皆さん

キリストの降誕を告げる福音は、いつも新たな驚きと喜びをわたしたちに与え続けています。神は、わたしたちが彼を愛し、わたしたちの腕に抱くことができるようにと、わざわざ幼子となって、この世にお生まれになってくださいました。神はこうすることで、まるで「わたしの神としての輝きがあなたを驚かせ、わたしの偉大さの前にあなたが萎縮してしまうであろうことを知っているために、あなたが何も恐れずに、わたしを受け入れ、抱きかかえ、愛することができるようにと、わたしは幼子としてあなたのもとに来ます」と言われているかのようです。

福音史家が記す、「宿屋には彼らの泊まる場所がなかった」という言葉は、何回聞いても心を打ちます。そして、毎回この言葉を耳にする度に、おのずから自分に対して疑問がわきあがってきます。「もし、マリアとヨゼフがわたしの家の扉をたたいたならば、一体自分はどうしただろうか」。彼らのために場所はあるのでしょうか。たまたま彼らのために場所がなく、彼らは馬小屋に行かざるを得なかったと言っているかのようですが、福音史家聖ヨハネは、事の本質に迫ります。「みことばは自分の民ところに来たが、民はみことばを受け入れなかった」と書いています。 (ヨハネ 1,11)

これは大きな倫理問題で、難民や、亡命者、移民にも関わる問題です。さらに根本的な問題としては、神がわたしたちのところにおいでになろうとする時、わたしたちは神のための場をほんとうに持っているのかということです。神のための場と時間を、わたしたちは果たして持っているのでしょうか。たぶん、神ご自身がわたしたちから拒否されているのではないでしょうか。

そもそも事の始まりは、わたしたちが神のための時間を持っていないということにあります。今日、様々な機械を発明し、何もかもが迅速にとり行われ、時間が節約されるようになるにつれて、ますます神のための時間がなくなっているのが現実です。神に関する問題には、もう緊急性がないかのようです。わたしたちの時間はもうすっかり詰まっています。

もっと深く物事を掘り下げてみましょう。わたしたちの思いの中には、神はもうどんな場所も持たないのでしょうか。わたしたちの考え方からすれば、神はすでに「存在すべきではない」かのようです。神がたとえわたしたちの扉を叩いていたとしても、何らかの理由をつけて、神は遠ざけられるかのようです。もう神のための場などありません。わたしたちの感性にも、意志にも、神の場がありません。

わたしたちは、わたし自身でありたいのです。わたしたちは触れることのできる物、感覚的な幸福、個人的な計画や、意向の成功のみを望んでいます。わたしたちは、頭の先まで完全に自分自身で一杯になっています。こういう状況では、神のためにはもうどんな場もありません。神のために場所がないならば、なおのこと、他人や、子供たち、貧しい人々、外国人たちのための場もあるはずがありません。

「彼らのために場所がなかった」という言葉から出発して、聖パウロが強調する勧告が、わたしたちにどれほど必要かがわかります。パウロは勧めます「心を新たにし、自分を変えよ」(ローマ12,2)。パウロは変革について語り、わたしたちの考え方を変えるよう勧めます。世界や自分自身についてのわたしたちの見方、考え方一般について、パウロは話しているのです。わたしたちが必要としている回心は、現実と自分たちの関わりの深みにまで到達すべきものなのです。

神が、わたしたちの存在と意志の扉をいかに懸命に叩いておられるかを聞き取ることができるよう、主ご自身の存在に敏感になれるよう、祈りましょう。わたしたちの心の中に、神のための場を作ることができるよう祈りましょう。こうしてわたしたちが、出会う子供たちや、苦しみ、見捨てられ、疎外された人々、この世の貧しい人々を通して、神ご自身を認めることができますように。

主の降誕のエピソードでもう一つ、皆さんと一緒に考察したい言葉があります。それは、救い主誕生のメッセージの後、天使たちが合唱した「栄光の賛美」です。「天のいと高きところには神に栄光、地には善意の人に平和あれ」。神は栄光に満ちています。神は純粋な光であり、真理と愛の輝きです。神は善いお方です。神は真の善そのものです。最高の善です。天使たちは神の栄光の喜びを伝えます。天使たちの歌は、彼らを満たしていた喜びの発露でした。天使たちの言葉の中に、何か天的なメロディーを聴く気がします。この喜びにわたしたちも満たされましょう。真理は存在します。純粋な善意も、純粋な光も存在します。神は善いお方であり、あらゆる権力をしのぐ最高の権力です。それゆえに、わたしたちは今晩、天使や羊飼いたちと共に、大きな喜びに満たされるのです。

神に栄光が帰されない場所、神を忘れた場所、神が否定される場所では、平和もあり得ません。けれども今日、正反対の理論も横行しています。宗教、特に一神教が、世界の中で暴力や戦争の原因になっているのではないかという意見です。したがって平和を樹立するためには、第一に人類を宗教から解放しなければならない、なぜなら、唯一の神に対する信仰は、尊大で不寛容の原因であり、その本性からして、自分たちが持っていると主張する唯一の真理をすべての人に押し付けるからであると。確かに、歴史において一神教が不寛容や暴力を醸し出したことがあるのは事実です。また、人間が神に関する事柄を自分たちで操作し、神をまるで私的な所有であるかのように取り扱う時、宗教がその本来の姿から離れ、病み、その本性から逸脱し、逆方向に走ることがあるのも確かです。

聖なるもののこうした歪曲に、いつも注意していなければなりません。もし、歴史上、宗教の何らかの濫用があったという事実が、否定できないことであったとしても、神を否定することによって、平和が樹立するわけではありません。神の光が消されてしまえば、神に由来する人間の尊厳も消え去ります。そうなれば、人間はもう誰であっても、弱い者、外国人、貧しい人々の中に尊重されるべき神の似姿ではなくなってしまいます。そうだとすれば、わたしたちは皆、兄弟姉妹でも、ただ一人の御父の子たちでもなくなります。天の御父によって、人類全体が互いに結ばれているのです。

どれほどの暴力行為が行なわれ、人間同士がどれだけ侮辱し合い、圧迫し合っていることでしょう。前世紀に、わたしたちはそのすべての残虐さを目の当たりにしたばかりではありませんか。ただ神の光が人間の上に、人間の中に輝く時、そして各自が神から望まれ、知られ、愛される時、その状態がいかに惨めであってもその時初めて人間の尊厳は不可侵のものとなるのです。

聖なる夜、イザヤ預言者が告げたとおり、神は人となられました。ここに誕生した幼子は「エンマヌエル」私たちと共におられる神ご自身です。 (イザヤ 7,14) 

歴史において宗教がいつも間違った方法で利用されただけではありません。人となられた神に対する信仰から、和解と善意の力がいつも新たにやってきていたのです。罪と暴力の暗闇に、この信仰は絶えず輝き続ける平和と善意の輝かしい光を投げつけました。

こうしてキリストはわたしたちの平和となり、遠くの人々、身近な人々に平和を告げたのです。(エフェソ2,14.17) 今、わたしたちも彼に真剣な祈りを捧げましょう。そうです、主は今日もわたしたちに、遠くの者にも身近な者にも平和を告げています。今日も剣は鎌に変えられ、戦いのための武器は苦しむ人々への援助に変えられますように。(イザヤ2,4)あなたの名において暴力を行使していると信じている人々を照らしてください。彼らが暴力の愚かさを理解し、あなたの真の御顔を認めることができますように。わたしたちが「あなたの御心にかなった者」となることができるようお助けください。あなたの似姿となり、こうして平和の人となれますように。

天使たちが去るや否や、羊飼いたちはお互いに言いました。「あちらに、ベトレヘムに行こうではないか。わたしたちのために起こったことを見に行こう」 (ルカ2,15)
福音史家は羊飼いたちが急いで行ったと言っています。(ルカ2,16) 聖なる好奇心がこの幼子を見に行くよう彼らを促しました。天使は、この子こそキリスト、主、救い主であると言いました。天使は彼らに大きな喜びを伝え、彼らの心に火をともし、喜び勇んで行くよう促したのです。

教会の典礼は、今日、わたしたちに「向こう、ベトレヘムに行こう」と言います。ラテン語聖書は、この「あちらに行こう」という言葉を、「あちら側に行こう」と訳しています。わたしたちの普段の考え方や、生活様式、単なる物質的な世界を通り越して、本質的なものに到るために進みましょう。わたしたちのもとにおいでになるために、ご自分の世界から出てきてくださった神に向かって、自分自身を乗り越して行きましょう。

わたしたちが自らの制限や、自分の世界を乗り越えて行けるよう、特に神ご自身が聖体においてわたしたちの心の中にお入りになる時、神に出会うお恵みを与えてくださるよう、主に祈りたいと思います。

ベツレヘムに行きましょう。この言葉をもって、羊飼いたちと共に、生ける神のことはもとより、実際のベツレヘムのことも、主ご自身が生き、働き、苦しまれた、すべての土地のことも考えましょう。今日かの地で生き、苦しんでいる人々のために祈りましょう。かの地に平和が実現されますように。イスラエルとパレスチナの人々が、唯一の神の平和と自由の中に生きることができるよう祈りましょう。また、レバノン、シリア、イラクなど、その周辺の国々にも平和が実現するよう祈りましょう。わたしたちの信仰の祖国であるこれらの国々に生きるキリスト教徒たちが、かの地に住み続けることができるよう、そして、キリスト教徒とイスラム教徒が共に、神の平和のうちに彼らの国を建設していくことができるよう祈りましょう。

羊飼いたちは急いで行きました。聖なる好奇心と、聖なる喜びが、彼らを推し進めました。今ではわたしたちは神様のことに関して、あまり急ぐことがないかもしれません。今日、神はもう緊急事ではありません。神に関することは後回しでいいと、わたしたちは考え、言ったりします。しかし、神こそ一番大切な重要な現実です。唯一、真に、重要な現実です。神がわたしたちに告げたことをもっと近くから見てみたいという好奇心を、なぜ持たないのでしょうか。

あの羊飼いたちの聖なる好奇心と聖なる喜びがわたしたちにも触れるよう祈りましょう。そして喜びをもって、あちらベツレヘムへ向かいましょう。今日もまたわたしたちの方にやって来てくださる主に向かっていきましょう。









All the contents on this site are copyrighted ©.