2012-08-31 18:23:15

8月15日聖母被昇天ミサ教皇説教


2012年8月15日聖母被昇天の大祝日ミサ教皇説教

親愛なる兄弟姉妹の皆さん、

今耳にしたばかりの福音書の中で、聖母マリア自身が預言的な言葉をもって語っています。
聖母は言います「これから先き世々の人々は私を幸いなものと呼ぶでしょう」 (Lc 1,48).これは教会全体にとっての預言です。

聖ルカによって伝えられるこの「マニフィカット」聖母賛歌の表現は、神の御母聖母マリアに対する賛美はその御子キリストにとっても賛美であり、全ての時代全ての場所の教会にも関わる賛美あることを示しています。

福音書の言葉からわかるように、聖ルカがこの福音を書いた時期にはすでに聖母マリアの栄光化の信心は人々の間にひろまっていたようで、福音史家もそれはあらゆる時代のキリスト教共同体が認めるべきものと考えたのでした。
   マリアのこれらの言葉は信仰に関して彼女の偉大さを思い起こすのは教会の努めめであると言っています。 ですからこの大祝日は神を賛美するように、そして同時に聖母の偉大さを感嘆するようにとの招きでもあります。

しかし、なぜマリアは天に上げられ栄光を受けたのでしょうか。聖ルカは今聞いたように、聖母マリアの高揚と賛美の根幹をエリザベットの言葉の中に見ています。「信じた方は幸いです」(Lc 1,45).
「マニフィカット」聖母賛歌、これは歴史の中で働かれる生ける神に対する聖母マリアの心からあふれ出た信仰と愛の賛歌です。

聖母マリアはその心の奥底でご自分の民に向けられた神のみ言葉、アブラハム、イザアク、ヤコブにされた神の約束を忠実に生き、そしてそれらを自分の祈りの内容としました。
神のみことばは「マニフィカット」の中で聖母マリアの言葉となり、その歩みを照らすともし火となりました。聖母はこうして人となった神のみことばをご自分の胎内に宿されたのです。

今日朗読された福音書のページは、歴史の中や様々な出来事の中に存在される神の現存を思い起こさせています。特に第二サムエル書の第6章で契約の櫃を運ぶダヴィデ王のエピソードの中にこのことがよく現れています。
この箇所に福音史家が一連の出来事を関連づけているのは明らかです。イエスの誕生を待つ聖母マリアは、慰めと完全な喜びの源泉、神の現存をその中に持つ「聖なる櫃」そのものです。ヨハネはエリザットの胎内でまさしく「契約の櫃」の前で踊ったダヴィデ王のように喜び踊ります。

マリアは喜びのもとである神の訪問です。ザカリアはその賛歌の中でこのことを直接に言っています。「イスラエルの神、主は祝されますように。なぜなら主はその民を訪れ救われたからです」(Lc 1,68).
ザカリアの家は洗礼者ヨハネのおもいがけない誕生によって神の到来を体験しました。しかし特にその胎内に神の子を携えているマリアの訪問によって神の到来を体験したのです。

聖母マリアの被昇天は私たちの歩み私たちの生活に一体何を提供してくれるのでしょうか。

最初の答えはこうです。被昇天の中にまた神の中に人間のための場があり、神自身がイエスが語っているあの多くの人々のための家だということを見るのです。 (cfr Gv 14,2);神は人のための家です。神の中に神の場があります。

マリアは神と一致して私たちから遠のくわけではありません。未知の宇宙に行ってしまうわけでもありません。神のところに行く者は私たちに近づいてくるのです。なぜなら神は私たち皆にとってまじかな存在だからです。神と一致したマリアは神の現存に参与しています。だからこそ私たちに私たち一人ひとりに非常に近い者となったのです。

聖ベネディクトについて言った大聖グレゴリオの美しい言葉はマリアにも当てはめることが出来ます。
大聖グレゴリオは言っています「聖ベネディクトの心は大きく非常に大きくなったので全被造物がその心の中に入れるくらいでした」。

これはもっとマリアについては言えることです。マリアは完全に神に一致したので彼女の心は全被造物がその中に入れるくらい大きくなりました。世界中の信者たちのマリアに対する信心がそれを如実に表しています。

私たちに近いマリアは私たちの声に耳を傾け,私たちを助けることがいつでも出来ます。マリアは私たち皆に近い存在です。神の中に人のための場があります。神は人間に近いお方です。神に一致したマリアは私たちに最も近く、そしてマリアは神の心のように広い心をお持ちです。

しかしもう一つ別の観点もあります。ただ神の中に人のための場があるだけではなく、人の中にも神のための場があるということです。
これも神の現存を携える「聖なる櫃」であるマリアの中にも見ることが出来ます。
私たちの中に神のための場があります。この私たちの中における神の現存は多くの問題を抱え悲しみに沈むこの世界を照らすために大変重要です。この神の現存は信仰において実現されます。信仰において私たちの存在の扉を開き、こうして神は私たちの中に入られます。こうして神は私たちの存在に生命と歩みを与える力となりうるのです。
私たちの中に場所があります。

「あなたのみ旨が行われますように。私は主のはしためです」と言って神に自分自身を開いたマリアのように私たちも自分自身を神に開きましょう。

神に自分を開いても、私たちは何も失いません。いや反対に私たちの生命はより豊かに、そして、より大きくなるのです。
こうして、信仰と希望と愛は一つになります。
今日、期待されるよりよい世界について多くの言葉が語られています。よりよい世界それは私たちの希望です。いつこのような世界が来るのは私たちにはわかりません。
しかしこれだけは確かです。神から離れる世界は決してよりよい世界にはなれません。ただ神の現存だけがよりよい世界を保証できるのです。

神は私たちを待っています。私たちは無駄に歩みはいたしません。私たちは待たれているのです。
神は私たちを待っておられます。私たちはきっと神を見出すでしょう。別の世界に行くことによって、聖母の愛と私たちの愛する人々、そして神の永遠の愛を見出すことでしょう。
神は私たちを待っています。まさしくこれこそ今日の祝日から生まれ出る私たちの大きな喜びであり、大きな希望です。 マリアは私たちを訪れ、私たちの喜び希望となられます。
マリアは凱旋する教会の輝きであり曙です。マリアはまだ旅を続ける神の民のための希望であり慰めです。
永遠の生命における私たちの信仰を主が強めてくださる恵みを獲得し、そして神が希望をもって私たちに賜るこの世の時間をよりよく生きることが出来る助けをいただけるように、マリアの母としての取次ぎに私たち自身を託しましょう。

天国に対する単なる憧れではなく、生き生きとしたまた具体的な行いをも伴う神への願望であるキリスト教的希望は、私たちの中に愛の力と勇気であるでもある信仰の力と勇気とを養いないつつ、私たちを疲れを知らぬ巡礼者にしてくれるのです。








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