2012-08-21 18:57:12

「命のパン」であるイエスを観想、教皇、日曜の集い


教皇ベネディクト16世は、カステルガンドルフォで19日、日曜正午の祈りを信者と共に唱えられた。

集いの中で教皇は、この日のミサで朗読された、ヨハネ福音書6章の最終部分(6,51-58)をテーマに講話を行われた。

イエスはパンを増やす奇跡を行われた翌日、カファルナウムの会堂において行われた説教で、ご自分を「命のパン」として示された。この日の朗読箇所でその説教は頂点を迎える。

神なる御父は、荒れ野を旅するイスラエル人の空腹をマンナで満たされたが、今、神は真のパンとして、御子をおくられた。教皇は、このパンがわたしたちのための犠牲として捧げられたイエスのからだ・命であるということは、信仰によって受け入れられるべきことであると強調された。

イエスのこの説教は、人々の賛同を求めて行なったものではなく、人々の反発を承知で、あえて話されたものであり、実際、これはイエスの公的宣教における最も困難な時、一つの転換点であったと教皇は指摘。

パンを増やす奇跡など、イエスが特別なしるしを行なった時、群衆や弟子たち自身も熱狂していたが、イエスのこの説教に皆の熱狂はさめ、多くの人がイエスに賛同できなくなっていったその過程を見つめられた。

イエスはパンのイメージを説明しながら、自身が命を捧げるために遣わされたこと、イエスに従いたい者は、彼に完全に一致し、彼の愛の犠牲に参与しなければならないと説いている。

教皇は、イエスはそのために最後の晩餐で聖体の秘跡を制定し、これによって、イエスの弟子たちが彼の愛を自分たちの中に留め、彼と一致した唯一の体となり、世に彼の救いの神秘を保つことができるように望んだと、話された。

イエスの説教を聞いた人々は、イエスが自分たちが望んでいたメシアではないことを知ったが、イエスはこの説教を行うことで、人々の幻想を覚まし、特に弟子たちの決意を促そうとされたと、教皇は述べられた。

何千もの人のために裂かれたパンは、勝利の行進を求めるものではなく、十字架の犠牲を先取りするものであったと説いた教皇は、今一度「命のパン」として自分を宣言するキリストの言葉を驚きをもって聞きながら、十字架の犠牲において、パン、すなわち人々の贖いのために供されたからだと血となるイエスを観想し、聖体の秘跡の素晴らしさを再発見するよう、信者らを招かれた。








All the contents on this site are copyrighted ©.