2012-08-07 17:18:40

「物質的心配に留まらず、さらなる世界に自分を開く」教皇、日曜の集いで


教皇ベネディクト16世は、カステルガンドルフォで5日、日曜正午の祈りの集いを行われた。

説教で教皇は、この日のミサ中朗読されたヨハネ福音書(6,24-35)を取り上げられた。

イエスがパンを増やす奇跡を行なった後、群衆はイエスを捜し求めた。彼らは小船に乗り、カファルナウムまで来てやっとイエスを見つけた。しかし、自分を追う人々の熱意の理由を知るイエスは、「あなたがたが私を捜しているのは、しるしを見たからでなく、パンを食べて満腹したからだ」(6,26)とはっきり言われた。

教皇は、ここでイエスは、物質的な必要をただちに満足させることを超えて、それ以上のところへ人々を導き、食べるものや、着るもの、仕事の成功などの単なる日常の心配だけではない、人間存在の一つの境地を開こうとされていると、話された。

「朽ちる食べ物のためではなく、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これが人の子があなたがたに与える食べ物である」(6,27)とイエスは言うが、理解できない群集は、イエスはこの奇跡を続けるために掟を守ることを要求するのだと考え、「神の業を行なうためには、何をしたらよいでしょうか」(6,28)と問う。イエスはこれに答えて、「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である」(6,29)と言われた。

「人間存在の中心にあるもの、すなわち、時に困難な人生の歩みの中で、意味と揺るがない希望を与えるものは、イエスにおける信仰、キリストとの出会い」と教皇は明示。

わたしたちもまた「永遠の命を得るためには何をすべきでしょうか」と尋ね、「わたしを信じなさい」というイエスの答えに耳を傾けるよう招かれた。

信仰を人生の「本質」として示された教皇は、それはある理想や計画を追うことではなく、イエスと生きた出会いをし、イエスとその福音に自分全体が包まれることと説明。

「イエスは、純粋に人間的な世界に留まらず、神の世界、信仰の世界に自分自身を開くよう招いておられる」と教皇は話しながら、「神がお遣わしになった者を信じる」、それがイエスが要求する唯一のことと強調された。

モーセはイスラエルに天のパン、マンナを与え、これによって神ご自身はその民を養われたのに対し、イエスは何も与えないが、自分自身をお与えになると教皇は指摘。イエスこそが「天から降った、真のパン」「御父の生ける言葉」であり、イエスとの出会いは生ける神との出会いであると説かれた。

用事や問題であふれた毎日、また休養の日において、物質的なパンを心配し、再び力を養う必要がある時こそ、キリストとの関係を育て、「いのちのパン」である方、わたしたちの真理と愛への願いを満たしてくださる方への信仰を強めることが大切と、教皇は呼びかけられた。








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