2012-06-28 17:56:20

聖パウロの「キリスト賛歌」をテーマに、教皇一般謁見


教皇ベネディクト16世は、バチカンで27日、水曜恒例の一般謁見を行われた。

謁見中のカテケーシス(教会の教えの解説)で、教皇はキリスト教の祈りをテーマに、聖パウロの書簡に見られる祈りの考察を続けられた。この日は、特に「フィリピの信徒への手紙」中の「キリスト賛歌」(2,6-11)に注目された。

おそらくローマの獄中から書いた、ある意味で「遺言」ともいえるこの手紙で、聖パウロはキリストの弟子であることの喜びをあふれさせ、たとえキリストのために死ぬとしても、それは無駄ではなく、むしろ「利益」であると言っている。そして、この「キリスト賛歌」を通して、キリストご自身の生涯の思いと行いを深く見つめている。

教皇によるカテケーシスの要約は以下のとおり。

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聖パウロの手紙におけるキリスト教的祈りについての考察を続けながら、今日は聖パウロの「フィリピの信徒への手紙」に見られる、あの偉大な「キリスト賛歌」(2,6-11)に目を向けてみましょう。

福音のために囚人となっていたパウロは、真の深い喜びは、わたしたちの人間性をとるまでへりくだった神の御子に忠実に倣うことの結果であると、信者たちに教え励ましています。

十字架上の死に到るまでの、キリストの御父の御旨への従順は、アダムの罪を消し去り、わたしたち人間の本来の尊厳を回復してくれました。ですから、神はキリストを高く引き上げ、彼に「主」という名を与えたのです。

そして、イエスの御名の前に、天上、地上、地下のすべてはその膝をかがめます (同 9-11)。イエスの高揚は、そのへりくだりによることですから、わたしたちも自分たちの生活や祈りにおいて、へりくだることによって、神のもとに上るのだといえます。

わたしたちももっとしばしば、すべての創造物の主であるキリストの神性に対する賛美と礼拝のうちに、膝をかがめなくてはなりません。

神であるキリストの忠実な証人として、わたしたちが祈りを通して自分たちの思いや行いを正していくことができますように。








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