2012-06-14 17:06:48

教皇一般謁見:聖パウロの観想的祈りをテーマに、ダブリンの国際聖体大会に励まし


教皇ベネディクト16世は、バチカンで13日、水曜恒例の一般謁見を行われた。

この席で教皇は10日から17日にかけてダブリンで開催中の「第50回国際聖体大会」(テーマ:「聖体:キリストとの一致、わたしたち同士の一致」)の参加者に挨拶をおくられた。

教皇は、この大会を「教会生活における聖体の中心性を再確認する機会」として強調。

イエスは十字架上でわたしたちのために自らを捧げたその最高の愛の犠牲を通して聖体の中に現存され、わたしたちがキリストと似た者となり、彼との一致を得られるようわたしたちの食べ物となられたが、まさにこの一致を通して、わたしたち自身もキリストにおいて一つとなることができると、説かれた。

開催地アイルランドの教会関係者と世界各国から参加の司教や司祭、信者らに精神的一致を示された教皇は、聖体が常に全教会を生かす心臓としての存在であることを願いつつ、この聖体大会の実りを祈られた。

謁見中のカテケーシス(教会の祈りの解説)で教皇は、キリスト教の祈りをテーマに、現在、聖パウロと祈りの関係を考察されている。

「祈りは魂の呼吸であるだけでなく、平和のオアシスであり、そこでわたしたちは霊的生活を養い、私たちの存在を変容させる水を汲み取ることができる」と述べた教皇は、聖パウロのコリントの信徒への手紙2の12章に見る、パウロの観想的な祈りの体験を取り上げ、解説された。

同書簡で、聖パウロは自分の使徒職の正当性を示すにあたり、福音宣教のために受けた試練や苦難を思い起こすだけでなく、時に恍惚に至る観想を伴うほどの主と自分との結びつきを述べている (2コリント12,1)。

ここで聖パウロが、自身の力や、その活動や成功を誇るのではなく、自分の中に自分を通して行なわれた神の働きを誇っていることに教皇は注意を向けられた。

聖パウロは、神のもと、ここで言う「第三の天」まで引き上げられた体験を大きな謙遜をもって語るが、彼はその出来事を表現することの困難さゆえに、第三者に起きたこととして話していると教皇は指摘された。

さらに使徒は、受けた啓示の素晴らしさゆえに思い上がることがないようにと、自分の身に一つの「棘(とげ)」が与えられたと述べている。これについて教皇は、その「棘」が何であるのか、「自分の弱さ」とは何のことであるのか、パウロは言わないが、キリストに従い、福音を証しする歩みの中で、あらゆる困難は主の御業への信頼によって乗り越えられることを、彼の態度は示していると話された。

パウロが、サタンから送られたこの苦しみを自分から離れ去らせてくださるよう主に三度願うと、主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われた(同12,9)。

神の言葉に真の福音の使徒であることの意味を知ったパウロはこのように言う。「キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。  弱さ、侮辱、困難、迫害、不安や苦しみの中にあっても、キリストのために満足しています。実際、わたしは弱い時にこそ、強いからです」(同12,9b-10)。

神を前にしたこのような深い謙遜と信頼の態度こそ、わたしたちの祈りと生活、神との関係、自身の弱さのために不可欠なものであると教皇は強調。また、謙遜であるとは、自分の力のみを過信せず、弱い存在である自分を主に託し、主の助けのもとに主のぶどう畑で働くことであると話された。

祈りのうちに魂を神に開くことで、神はわたしたちの弱さの中に住みに来てくださり、福音のためにその弱さを力に変えてくださると述べた教皇は、人間の力だけに頼りがちな現代社会において、わたしたちは祈りの中で伝えられる神の力を再発見し、証ししていかなければならないと呼びかけられた。

パウロの神秘主義に触れたこのカテケーシスで、教皇は、真の神秘主義、神との一致は、人を現実から遠ざけず、むしろキリストのために毎日を生き、教会を築き続ける力を与えてくれるものと話された。

特に神が不在に思われるような厳しい試練の中でも、神との忠実を守り続けることが大切と説かれた教皇は、霊的に乾いた状態に長く置かれながらもイエスを観想し続け、貧しい人たちのために信じがたい力をもって奉仕した、コルカタの福者マザー・テレサを思い起こされた。








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