2012-04-20 15:48:27

2012年度復活徹夜祭・教皇説教



教皇ベネディクト16世は、聖土曜日4月7日から復活の主日8日にかけての深夜、バチカンの聖ペトロ大聖堂で復活の聖なる徹夜祭をとり行われた。

教皇のミサ中の説教は以下のとおり。

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親愛なる兄弟姉妹の皆さん

復活は新しい創造の主日です。イエスは復活しました、もう死ぬことはありません。イエスは死も病気ももうない、新しい生命への扉を打ち開きました。神自身の中に人間を取り込みました。

「肉と血は神の国を継ぐことはできません」と、聖パウロはコリントの教会に宛てた手紙の中で言いました。3世紀の教会著作家は、キリストの復活とわたしたちの復活に関して、「肉よ、血よ、信頼しなさい。キリストのおかげで、あなたたちは天と神の国に自分の場所を獲得したのです」と書き残しました。人間のために新しい次元が開かれたのです。創造はこれまで以上に大きく広いものになりました。

復活は新しい創造の日です。まさしくこのためにこそ、教会はこのような日に、新しい創造をよく理解できるように、古い昔の創造のみ業についての記念から典礼を開始します。それゆえに、復活徹夜祭のみことばの典礼 の始めには、世の創造の朗読があるのです。

神の創造のエピソードは、いったい何を意味しているのでしょうか。創造は光から始まります。光は生命を可能にします。光は出会いを可能にします。光はコミュニケーションを可能にします。光は知識を可能にし、現実に近づくこと、真理に到ることをも可能にします。知識を可能にすることによって、自由と進歩をも可能にします。神が光を創造したということは、神がこの世界を知識と真理の空間、出会いと自由の場として創ったということです。

創造された世界は、それ自体も、存在自体も良いものです。悪は、神から創造された存在に由来するものではありません。それは否定です。神に対する「否」です。

復活の日、週の初めの日の朝、神は再び「光あれ」と言われました。その前には、オリーブ山の夜の闇、受難の日食、イエスの死、墓の闇がありました。しかし今、最初の日に、創造は再びまったく新しく再開します。神は言われます「 光あれ」、そして「光は輝き始めます」。

イエスは墓からよみがえります。生命は死よりも、善は悪よりも、愛は憎しみよりも、真理は偽りよりも強いのです。過ぎ去った日々の闇は、キリストが墓からよみがえったその時、消え去り、キリスト自身が神の純粋な光になります。彼自身が神の光です。これはただキリストにのみ、あの日々の闇にのみ関わることではありません。キリストの復活と共に、光そのものも新たに創造されたのです。キリストはわたしたち皆を、復活の新たな生命の中で、ご自分のあとに引き寄せます。そして、あらゆる形の闇に打ち勝ちます。

キリストはわたしたち皆にとって、神の新しい日なのです。

しかし、これはどのように実現するのでしょうか。これらすべてが実際にわたしたちの生活にも、ただ単に言葉だけではなく、どのように現実となるのでしょうか。洗礼の秘跡と信仰告白によって、主はわたしたちに向かう橋を作りました。この橋を通して、新しい日はわたしたちに達するのです。洗礼において、主は受洗者に言われます「光あれ」と。新しい日、永遠の生命の日はわたしたちのところにも来ます。キリストはあなたの手を取って導きます。これから先、あなたは主によって支えられ、こうしてあなたは光の中に、真の生命の中に入っていくでしょう。ですから、古代教会では洗礼は「フォティスモス」(照らし)と呼ばれていました。

なぜでしょうか。人間は手で触れうるものや、物質的なものを見たり調べたりはできますが、この世界がどこへ行き、どこから来るのかは見えません。ですから、暗闇は人間にとって本当に脅威です。

わたしたちの生命そのものは、どこに行くのでしょう。善とは何で、悪とは何なのでしょうか。神についての闇、価値についての闇は、わたしたちの存在にとって、また世界にとって、真の脅威です。もし、神や、価値、善と悪の違いが闇に留まるなら、他のすべての啓蒙は進歩ではなく、かえってわたしたちと世界を危険に陥れる脅威となります。

今日、人類は空の星が見えなくなるほど、明るく街々を照らしだす可能性を持ちました。これこそ、わたしたちと照らしの問題を象徴しているのではないでしょうか。わたしたちは物質的なことに関しては信じられないほどのことを知り、できますが、この世界を超えると、もう神についても善についても、皆目見極めることができなくなっているのです。

ですから、信仰がわたしたちに神の光、真の照明を示してくれます。信仰はわたしたちの世界へ神の光を豊かに流れ込ませ、わたしたちの目を真の光に開くのです。

親愛なる友人の皆さん、最後にもう少し光と照らしについて考察してみたいと思います。復活徹夜祭、新しい創造の夜、教会はこの光の神秘を「復活ろうそく」という特別な、かつ大変つつましいシンボルで記念します。ろうそくの光は自分自身を犠牲にすることによって輝き、光となります。ろうそくは自分の身を削りながら輝きます。自分自身を与え尽くすことによって光を放つのです。こうして自分自身を与え尽くし、偉大な光を与えるキリストの過ぎ越しの神秘を、ろうそくの光という素晴らしい方法で表現します。

また第二の考察として、ろうそくは炎でもあるといえます。炎は世界を形作り、変容させる力でもあります。炎は暖かさをもたらします。ここでもキリストの神秘が再び感覚的に表現されます。光であるキリストは炎です。悪を焼き尽くし、世界とわたしたち自身も変えていきます。「わたしの近くにいる者は炎の近くにいる者である」とオリゲネスが伝えたこの言葉は、まるでイエス自身の言葉のようです。この炎は同時に熱でもあります。冷たい光ではなく、わたしたちがその中で神の温かさと善意に出会う光です。

過ぎ越しを祝う典礼の初めに助祭が歌う偉大な「エグズルテット」(復活賛歌)は、もう一つの側面に気付かせてくれます。この蝋(ろう)という産物は、ミツバチの働きの産物にほかなりません。ろうそくにおいて、創造は光をもたらすものとして表現されます。ここに教父たちはさらに間接的に教会のイメージをも見出しました。教会内における信徒たちの生きた共同体の協力は、ミツバチたちの協力のように、光の共同体を作り出します。こうして、わたしたちはろうそくの中に、キリストの光が世界を照らせるようにとの、わたしたち自身に対する呼びかけ、教会共同体におけるわたしたちの交わりに対する呼びかけを見ることができるのです。

今、主の光の喜びを経験できるよう、主に祈りましょう、そして、わたしたち自身が主の光をもたらす者となり、教会を通してキリストのみ顔の輝きが世界に及ぶよう、祈りましょう。 アーメン。








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