2012-02-02 18:46:09

イエスのゲツセマネの祈りを考察、教皇一般謁見



教皇ベネディクト16世は、バチカンで1日、水曜恒例の一般謁見を行われた。

謁見中のカテケーシス(教会の教えの解説)で、教皇は祈りをテーマとする考察を続けながら、この日はイエスのゲツセマネの園での祈りを観想された。

教皇はこの祈りに、イエスの死を前にした人間としての恐れや苦悩、深い孤独、背負うべき全人類の罪の重さへの慄きと共に、御父のみ旨への完全な従順を読み取るよう招かれ、御父のみ旨を完全に自分のものとすることで、イエスは人類を贖われたと強調された。

そして、イエスのゲツセマネの祈りに見るように、祈りの中で自分の苦しみを神の前に注ぎだすことはもとより、自分や自分の周りにある悪の重さを神の前で自覚し、神に希望と光を願うことが大切と説かれた。

また、イエスが選び伴った弟子たちは眠ってしまい、イエスの深い苦悩の祈りを分かち合うことができなかったが、私たちは祈りのうちにイエスと共に目覚めていることができるよう、主にそのための力を願わなければならないと教皇は述べられた。

教皇のカテケーシスの要約は以下のとおり。

********

愛なる姉妹の皆さん

キリスト教的祈りをめぐる今日のカテケーシスでは、最後の晩餐の後の、イエスのゲツセマニの園での祈りを考察しましょう。

主は死に直面する準備をしながら、神の永遠の御子として天の御父との交わりに入ります。 主はペトロとヤコブとヨハネを伴うことを望まれます。彼らの存在は、十字架の道を歩むイエスのそば近くにいるようにとのすべての弟子たちへの招きです。

ゲツセマニの園でのイエスの祈りは、死を前にした彼の人間としての恐れと苦悩を表すと同時に、天の御父のみ旨に対する彼の完璧な従順をも示しています。

「わたしが望むことではなく、あなたの望むことを」というイエスの言葉は、わたしたちが天の御父のみ旨に対する完全な委託においてのみ、人間としての自己実現に到ることができることを教えています。

御父に対するキリストの「はい」において、アダムの罪は贖われ、人類は自由、すなわち神の子らとしての自由を獲得します。

ゲツセマニでの主の祈りを観想することで、わたしたちと、我々の人生に対する、神のみ旨をよりよく理解することができますように。そしてこの観想が「みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように」と願う、わたしたちの毎日の祈りを支えてくれますように。








All the contents on this site are copyrighted ©.