2012-01-26 17:40:05

イエスの最後の晩餐の祈りを考察、教皇一般謁見



教皇ベネディクト16世は、25日、バチカンで水曜恒例の一般謁見を行われた。

謁見中のカテケーシス(教会の教えの解説)で、教皇は祈りをめぐる考察として、イエスの最後の晩餐で捧げた祈り(ヨハネ17,1-26)を取り上げられた。

教皇は、「司祭的祈り」と呼ばれるこの祈りの背景に、ユダヤ教の贖罪日、ヨム・キプールがあることを指摘。この日に大祭司はまず自分のため、次に司祭たちのため、そして民全体のために贖罪をするが、イエスの祈りはこの祭りの構造をとっていることを説明された。

大祭司であると同時にいけにえであるイエスは、最後の晩餐の夜、御父に向かい、自分自身を捧げるにあたり、始めに自分自身のために祈り、続いて使徒たちのため、さらに彼を信じるすべての人のため、あらゆる時代の教会のために祈る。

自分のための祈りとして、イエスは神の子としての栄光を示す「時」が来たことを告げながら、「あなたの子があなたの栄光をあらわすために、子に栄光をお与えください」と御父に願う。

次に、イエスは彼と共にいる弟子たちのために神に祈る。この取次ぎと贖いの祈りの中心となるものは、弟子たちを「聖なる者としてください」という願いである。教皇は「聖化」とは、ある現実、人や物を神の所有とすることと述べられた。

この「司祭的祈り」の中の最後の部分で、イエスはその眼差しを終末に向けながら、使徒たちが始める宣教によってこれから信仰に入るであろう、歴史を通じた、すべての人々のために、御父に祈っている。教皇は、こうしてイエスはすべての時代の教会のために祈り、私たちのためにも祈ってくださると説かれた。

そして、イエスの「司祭的祈り」の願いの中心は、すべての時代の弟子たちのために向けられ、イエスを信じるすべての者たちの一致に置かれていると話された。

イエスは彼の弟子たちが一つとなるようにと祈るが、神から受け取り育んだこの一致の力によってこそ、教会は世に属すことなく世を歩み、世が御子と、御子を遣わした御父を信じるようになるために託された使命を生きることができると強調された。

このように、偉大な豊かさを持つイエスの「司祭的祈り」のいくつかの要素を説明された教皇は、この祈りを読み、観想することで、主との対話において導かれ、祈ることを学ぶようにと招かれた。








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