2011-12-15 18:50:51

イエスの祈りに見る神と隣人への愛、教皇一般謁見


教皇ベネディクト16世は、バチカンで14日、水曜恒例の一般謁見を行われた。

キリスト教の祈りをテーマにした謁見中のカテケーシス(教会の教えの解説)で、教皇は先月末から、福音書に記されたイエスご自身の祈りを考察されている。この日、教皇は特にイエスの癒しの行為に結びついた祈りを取り上げられた。

福音書には、様々な状況においてイエスが癒しの行為を施す前に、神の癒しの業が自分を通して行われるようにと祈る場面が見られる。この祈りは、イエスと御父との唯一の関係を表すと同時に、困難にある人々に向けられたイエスの深い人間的共感を示すものでもある。

教皇はこうしたイエスの癒しの祈りを見る例として、マルコ福音書から、耳が聞こえず舌の回らない人を癒したエピソード( 7,32-37)と、ヨハネ福音書から、ラザロを生き返らせたエピソード(11,1-44)を紹介された。

耳と口の不自由な人の癒しにおいて、イエスがこの人を群衆の中から1人連れ出していることに教皇は注目。それは奇跡を人の目を避けておこなうことで、この癒しの業に対する人々の誤った解釈を避けるためだけでなく、なによりも癒すべき人に特別に向き合う必要があったためと説明された。

教皇はまた、イエスが癒しを行おうとする人の患部である耳と舌に非常に注意深く触れていることからもわかる、その真摯な働きかけを指摘。そして、天を仰ぎ、深く息をつき、その人に向かい「エッファタ(開け)」と言った一連の行為の中に、イエスの病者への思いと、神に上げる祈りが一致している様を見つめられた。

イエスの癒しの祈りにおける人間への同情と神への愛の共存は、ラザロを生き返らせるエピソードでさらにはっきりと浮かび上がる。

このエピソードでは全体を通して、イエスとラザロそして彼の姉妹マルタ、マリアとの友情が強調されている。この誠実な愛情は、イエスがラザロを亡くしたマルタとマリア姉妹の悲しみに触れ、心に憤りを覚え、涙を流したことからも明らかである。

「ラザロは死んだ。わたしがその場にいなかったのはあなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである」(ヨハネ11,14-15)というイエスの言葉に、ラザロの死においてイエスが自らのアイデンティティーとその使命を自覚し、この状況を神の栄光を表す場として捉えていることを教皇は示された。

ラザロの墓の石が人々によって取り去られた後、イエスは神に感謝して言った。「わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。わたしがこう言うのは周りにいる人々に、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じさせるためです」(ヨハネ 11,42)。

この祈りをもって、イエスは人々を信仰へ、神とその御旨への完全な信頼へと導き、神はその御一人子を使わされるまでに人間を愛され、命である神は希望をもたらし、人間の力では不可能な状況をも逆転させる力を持った方であることを示そうとしたと、教皇は話された。

イエスの祈りをめぐるこの2つのエピソードに、神への愛と隣人への愛の深い相互関係を見出された教皇は、隣人への関心が人を神に導き、神への愛が人を隣人へと向かわせると強調。この2つの愛が私たちの祈りの中に常にあるようにと願われた。








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