2011-09-25 18:39:50

教皇、フライブルクで若者たちとの集い「私たちの光であるキリストを輝かせよう」


教皇ベネディクト16世は、24日午後、司牧訪問先のフライブルク・イム・ブライスガウで若者たちと交流された。

ドイツ訪問も後半に入り、教皇は最終日のミサを翌日に控え、およそ4万人の若い信者らと前夜の祈りの集いを行われた。

会場となったフライブルクの見本市は歌や歓声であふれ、先月スペイン・マドリッドで行われたばかりの世界青年の日大会を思い出す参加者らもいた。

若者たちが手にしたろうそくの光を前に教皇は、「わたしは世の光である」(ヨハネ8,12)、そして「あなたがたは世の光である」(マタイ 5,14)という、2つのイエスの言葉を提示。

私たちの周りには闇や苦しみや不安があるが、そこに灯るごく小さな、しかし闇よりも強い光、キリストを見つめようと招かれた。

人間が生きていく上で毎日が晴れているわけではなく、苦しみや困難は当然避けることはできないと述べつつも、教皇は、キリストを信じる人には常に満ち満てる命への道を示す明るい光が灯り、彼らの目は、どんなに暗い夜にも光を見分け、やがて来る新しい日の薄明かりを見ることができると話された。

教皇はまた、私たちは一人では生きることができず、特に人生の大切な時、他の人々の存在が必要になると指摘。光が一つにとどまらず、その周りが次々に他の光で照らされ、それらが重なっていくように、私たちは光として生き、互いに分かち合い、助け合い、それぞれが他の模範となっていくことができるようにと願われた。

今日、人々の間で、聖人たちが現実離れした存在のように、諧謔的で歪んだイメージで捉えられることがあるが、それほど間違ったことはないと教皇は警告。

聖人たちは苦行をして最高レベルの道徳を持った、およそ近づきがたい人生をおくったわけではなく、皆それぞれの人生の波をくぐったと教皇は話し、キリストが気にかけるのは、私たちが何度よろめき転んだかではなく、彼の助けによって何度起き上がったかということであると説かれた。

教皇は、キリストが皆さんを呼んだのは、皆が善良で完璧だったからではなく、キリストご自身が善い方で皆さんを友にしたいと望まれたからであると述べつつ、キリスト者であるとは何か非凡なことを実現することではなく、私たちの光であるキリストを輝かせ、その恵みを自分の中で働かせることで聖なる者となることと強調された。

ろうそくは炎によって自らを燃やすことで光を放つものであり、ろうが火を燃やさないなら無用のままに終わると話された教皇は、何かを失うことを恐れて結局は何も得られないことがないよう、勇気をもって自分の才能を活かし、キリスト者として世の希望の光となっていって欲しいと、若者たちを励まされた。








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