2011-09-15 19:01:22

詩編第22番を考察、教皇一般謁見


教皇ベネディクト16世は、バチカンで14日、水曜恒例の一般謁見を行われた。

謁見中のカテケーシスで教皇は、祈りをテーマとした考察を続けながら、旧約聖書・詩編第22番を取り上げられた。

「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになるのか」という叫びで始まる詩編第22番は、イエスの受難の場面と強い結びつきを持ち、キリスト研究上、非常に深遠な意味に満ちたものと教皇は紹介。辱めと栄光、死と命という両面性、深い人間性と神学的豊かさを持つこの詩編を前半を中心に解説された。

この詩編には、迫害される無実の人が、その死を求める敵に取り囲まれた状況が描かれるが、詩編作者が苦痛に満ちたうめきをもって神に助けを求めつつ、苦悩の中で、揺るがぬ信頼をもって神秘的な賛美に開いていく過程に、教皇は人々の注意を向けられた。

作者の最初の叫びは神を呼び求めるが、神は遠く離れているように思われ、彼の苦しみに答えることなく、まるで彼を見放したかのように見える。この神の沈黙が詩編作者の心をさいなみ、彼はますます神を呼び続ける。

神の沈黙にもかかわらず、主との絆が断ち切れたとは考えず、むしろ神が自分を見捨てるはずがないと明言する詩編作者の深い信頼に教皇は注目。

詩編22の初めの叫びは、イエスの十字架上の叫びとして、マタイおよびマルコ福音書に記されるが、この叫びは、命の主としての姿とは対極にある死に瀕して、メシア、神の子キリストが上げる苦悩の叫びであると教皇は観想。

しかし、イエスのその叫びが、詩編の展開からもわかるように、絶望の叫びではなく、苦難の歩みから、神の勝利への信頼に基づく賛美と感謝へと流れ込んでいく祈りであることを強調された。

詩編22では、死と命が互いに分かちがたい神秘の中で交差する中、やがて命は勝利し、救いの神は主としての姿を輝かせ、地の果てまですべての人が主を祝い、信仰の勝利は、死を命の贈り物に、奈落の苦しみを希望の泉へと変えていくと話された教皇は、この詩編を味わい、キリストの受難と、復活の喜び、過ぎ越しの神秘の光を改めて体験するよう信者たちを招かれた。








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