2011-08-17 17:49:25

聖母被昇天:カステルガンドルフォで教皇ミサ


典礼暦で聖母被昇天の大祝日を迎えた15日、教皇ベネディクト16世は、カステルガンドルフォでミサを捧げられた。

この日は、神の恵みによってその存在の最初の瞬間から原罪をまぬがれたマリアが、地上の生活を終えた後、原罪の結果たる死の腐敗をまぬがれ、肉体も霊魂も天にあげられたことを記念する。

さわやかな早朝、離宮前広場のサン・トマソ・ダ・ヴィラノーヴァ教会は、教皇ミサに集う地元の教会関係者や信者たちでいっぱいとなった。

教皇はミサ中の説教で、神の御子を胎内に宿された聖母マリアの、真の「契約の箱」としての姿を深く観想された。

教皇の説教は以下のとおり。

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親愛なる兄弟姉妹の皆さん

今日、私たちは聖母マリアの最も古く、また最も愛された祝日の一つ、被昇天の大祝日を祝うために再びここに集いました。聖母マリアがその身も心も共に人間全体として天の栄光に上げられたことを祝うのです。こうして私たちの聖母マリアに対する愛を新たにしながら、全能の神が彼女の中で実現された偉大な業に感嘆し、それを賛美するのです。

聖母マリアを観想すると同時に、もう一つの恵みも与えられました。すなわち私たち自身の行く末をも、その最たる深みに垣間見るという恵みです。私たちの生活も毎日の営みの中に多くの問題や希望をそれぞれ秘めていますが、神の御母、聖母マリアの霊的歩み、その栄光に満ちた運命から光を受けることで、私たち自身の歩みの目的地、行くべき先を見出すことができるのです。

今日のミサ中朗読された聖書の言葉に注意を向けてみましょう。特に黙示録に見られ、ルカ福音書に反映されるイメージ、「契約の箱」について考察したいと思います。

第一朗読で「天にある神の神殿が開かれ、その中にある神の契約の箱が見えた」 (黙示録 11,19)とあります。「契約の箱」とは何のことでしょうか。何が現れるのでしょうか。 旧約聖書にとって「契約の箱」は、イスラエルの民の中における神の現存の象徴でした。
しかし、今ではもうシンボルではなく、現実になりました。新約聖書は真の「契約の箱」は一人の生きた具体的な人間であると言っています。つまり聖母マリアです。

神は建物の中に住まうわけではありません。神は一人の人間の中に、その心の中に住まわれます。聖母マリアは、人となられた永遠の神の子、私たちの主であり救い主であるイエス・キリストを、その胎内に宿されたお方です。

「契約の箱」の中には、モーセが神から与えられた二枚の律法の石板が納められていました。それはご自分の民と結ばれた契約を忠実に守るという神の意志を表すものでした。また、そこには神との契約に忠実であるため、神の意志や深い真理に沿って生きるための、諸条件が示されていました。

聖母マリアは、実に「契約の箱」そのものでした。なぜなら、自分自身の中にイエスご自身、生ける神のみ言葉を、神の意志そのもの、神の真理を受け入れていたからです。聖母はその中に、御血と身体をいけにえとして捧げることによって最高潮に達した永遠の新しい契約そのものであるお方を受け入れたからです。聖母の連祷において、キリスト者たちは聖母のことを「契約の箱」と呼びあがめてきました。まさしく聖母は神の現存の櫃であり、神がキリストのご人性をもって決定的に締結することを望まれた「契約の箱」なのです。

黙示録の言葉は、聖母マリアのもう一つの大切な面をも示しています。契約の活ける箱である聖母マリアは、特別な栄光に達する運命をも与えられました。なぜなら、彼女は信仰のうちに身ごもり、そして人の子として出産されたその御子と、天の栄光をも共有するほどに、この上なく固く一致していたからです。

「天に大きなしるしが現れた。一人の女が身に太陽をまとい、足の下に月を踏み、頭には十二の星の冠を戴いていた。女は身ごもっていた……女は男の子を産んだ。この子は、鉄の杖をもってすべての国民を治めることになっていた」(12,1-2; 5)と黙示録は描写しています。ここに神の母、恵みあふれるお方、聖霊の働きにまったく従順で、今ではその身体も霊魂も共に天の栄光に上げられた聖母マリアの偉大さがよく表現されています。

ダマスコの聖ヨハネは、この神秘について、有名なその説教の中で次のように語っています。「今日、いとも聖なるおとめマリアは、天の神殿に導かれました。今日、創造主そのものをその胎内に宿らされた活ける神の「契約の箱」聖母マリアは、人の手で作られたものではない、主の神殿の中に憩われます」。 そして、ダマスコの聖ヨハネはなおも続けます。「神のみ言葉をその胎内に宿らされた方が、その御子の住まいに入られるのは当然でした。神なる御父が選ばれた花嫁なる聖母が、天の婚姻の間に住まうのは当然なことでした」。

今日、教会は、神が真の契約の箱として選ばれた聖母へのその無限の愛を寿ぎます。聖母は人類に今もなお、救い主キリストを与え続けています。天において満ちみてる栄光を共有し、神の幸福そのものを享受し、同時に、私たちをも神がその中に住まわれる「契約の箱」となるよう招かれます。神の現存によって変容され、生かされ、神の現存の場となり、人はこうして他の人の中においても神に出会うことができるようになり、常に神との交わりのうちに生き、天の現実を知るようになるのです。

先ほど朗読された聖ルカの福音(1,39-56)は、ナザレの家を後にし、ザカリアとエリザベトを訪問するためにユダの山間の町に出かけるマリアを、生ける神の「契約の箱」であると示しています。「急いで」出かけたというこの言葉は、大変重要な意味を持っていると思います。神に関すること、おそらくこの世では、この神に関することだけが、いつも急いでする価値のあることだと言えましょう。なぜなら、それは私たちの生命にとっていつも緊急事だからです。

マリアがザカリアとエリザベトの家に入った時、一人だったわけではありません。その時、マリアは、人となられた神そのものである自分の子をその胎内に携えていました。その家では確かにマリアの助けも待たれていたでしょう。しかし、福音記者はもう一つ別のもっと意味深い期待に、私たちの注意を向けています。

ザカリア、エリザベト、そしてエリザベトの胎内の洗礼者聖ヨハネは、希望に満ちてメシア・救い主の到来を待ち望んでいたイスラエルのすべての義人たちの象徴でした。聖霊はエリザベトの目を開き、マリアの中に真の「契約の箱」を認めさせます。こうして年老いたマリアの従姉妹は、「あなたは女の中で祝福され、ご胎内の御子も祝された方です。わたしの主の御母がわたしのところにおいでくださるとは、いったい、どうしたことでしょう」 (ルカ 1,42-43)と声高らかに叫びました。

ここで福音記者は「喜んで踊る」と言う言葉に、「スキタン」と言う言葉を用いています。このギリシャ語は、旧約聖書では、やっとイスラエルに戻ってきた聖なる箱の前で喜び踊ったあのダビデ王の踊りを表現する同じ用語です。洗礼者ヨハネは母親の胎内で、あの「契約の箱」の前で喜び踊るあのダビデ王のように、真の「契約の箱」の前で喜び踊ります。

こうしてマリアは新しい「契約の箱」であると認められます。その前で心は喜び踊ります。世にある神の御母マリアは、この神の現存をただ自分の中だけに留めておきません。神の恵みを他の人々にも差し出します。こうしてマリアは、その中に救い主が実際に私たちと共にいてくださる「契約の箱」、私たちの「喜びの元」となるのです。

親愛なる兄弟の皆さん、私たちは今、聖母マリアについて話しているのですが、実は私たち一人ひとりについても話しているのです。なぜなら、神が聖母マリアに唯一特別な方法で与えた無限の愛を、私たちもまたいただけるようになっているからです。聖母の被昇天の大祝日にあたり、聖母を見つめましょう。聖母は喜びに満ちた未来に向けて、大きく希望の扉を開いてくれます。それだけではなく、そこに到達するための道をも私たちに示してくれます。

それは、信仰の中にマリアの御子イエスを受け入れること、彼との友情を決して失わないこと、かえってその御言葉に照らされ導かれること、たとえ私たちの十字架が重く感じられる時があっても、毎日彼に従っていくことです。天の至聖所に安置される「契約の箱」である聖母マリアは、私たちが今、神との喜びと平和の交わりである、私たちの本当の家に向かって歩んでいる最中であることを、はっきりと教えてくれるのです。アーメン 。








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