2011-08-04 17:52:53

教皇一般謁見・カテケーシス(2011.8.3)


親愛なる兄弟姉妹の皆さん

このカステルガンドルフォの広場で皆さんとお会いし、7月の間中断していた一般謁見を再開できることを大変うれしく思います。ここでは、「祈りの学舎」というこれまでのテーマを続けながら、今日は、この主題からあまり離れることなしに、霊的で実践的な意味で、私たちのように夏の休暇を過ごしている人々だけではなく、毎日の仕事に従事している多くの人々にも役立つ、いくつかの点を指摘したいと思います。

休暇中など、自由になる時間がある時、私たちはよく何かの本を手に取り、読書をしようとします。今日、お話したいのはまずこの点です。私たちには皆、思索したり、黙想する静かな時間が必要です。実際、私たちはただ働くためにあるのではなく、考え、反省し、あるいはただ単に頭や心を使って物語やストーリーに入り込み、自分を豊かにする必要をも持っているのです。

休み中に私たちが手に取る本の多くが、気晴らしを目的としたものであることは、ごく当然なことです。しかし、もう少し長い余暇を取れる人々は、さらに身の入った読書に時間を費やすことができるでしょう。そこで、お勧めしたいことがあります。休暇の間、聖書の中でも普段あまり知られていない書を再発見してはどうでしょうか。もっとも、それらのある箇所を典礼行事の中で耳にしたことはあるかもしれません。しかし、その書全体を読んだことはあるでしょうか。キリスト者であっても聖書を読んだことがなく、聖書についてほんの断片的で表面的な知識しか持ち合わせていないこともあるのです。

聖書はその名が示すとおり、千年の長きにわたって形成された、多くの本からなる「小さな図書館」のようなものです。その中に含まれる小さな書物は、たとえ良いキリスト者であっても、多くの人々の目には触れないものです。このうちのいくつかは、大変短い本です。たとえば「トビト記」は、家庭や結婚についての崇高な意味を教示してくれる本です。「エステル記」には、ヘブライ人の王妃が信仰と祈りによって自分の民を虐殺から救う話が語られています。より短いものとしては、「ルツ記」があります。一人の外国人の女性が神を知り、その摂理を体験する様子が物語られています。これらの小さな本は、どれも1時間もあれば読み切ることができます。

もっと長いもので、真の傑作ともいえるものは「ヨブ記」です。この本は無実の苦しみの大きな問題を取り扱っています。また「コヘレトの言葉」は、驚くべき現代性をもって、人生やこの世の意義を問い、強い印象を与えます。「雅歌」は、人間の愛をすばらしい象徴をもって歌い上げています。

ご覧のように、これらはすべて旧約聖書の中にある本です。では、新約聖書はどうでしょうか。確かに新約聖書の方がよく知られており、文学的な分類の点から言っても、旧約聖書のように複雑ではありません。しかしながら、一つの福音書を通して読み上げる体験には奥深いものがありますし、それは「使徒言行録」や「書簡」についても同様です。

親愛なる友人の皆さん、夏の休暇中、いつも聖書をそばに置きましょう。聖書を新しい方法で味わい、あまり知られていない書や、福音書のようによく知られている書についても、通しで読むことをお勧めします。こうすることで、休暇が文化的に豊かになるだけでなく、霊的にも養われ、神についての知識と、神との対話を育てることができるでしょう。聖書の中の一つの書を読むこと、これは休暇中だからこそできる素晴らしい過ごし方です。こうして休息を取りながら、同時に神の御言葉の広い世界に分け入り、永遠の神と私たちとの関係を深めることができるのです。これこそ主が私たちに与えてくださる余暇の目的だとも言えましょう。








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