2011-05-11 17:41:19

「人間の心に刻まれた神への熱望」教皇、祈りをテーマに、一般謁見


教皇ベネディクト16世は、バチカンで11日、水曜恒例の一般謁見を行われた。

謁見中のカテケーシス(教会の教えの解説)で、教皇は先週から始まった新テーマとして「祈り」をめぐる考察を行われた。

この日、教皇は特に、祈りとその宗教的意味が人間の歴史の中で果たした役割を見つめられた。

教皇は、世俗主義の影響が強い現代、多くの人にとって神は無視・無関心の存在とされる一方で、人々の間に新しい宗教意識の芽生え、生活における神の重要性の再発見、物質主義から抜け出すための精神性の要求などが見られることを指摘。

歴史を振り返る中で、啓蒙主義時代からの、宗教の消滅と信仰を切り離した絶対理性の高揚の予測は果たされず、2つの悲劇的な世界大戦を含む前世紀の体験は、神のない人間の自立した理性が可能にすると思われた発展を危機に陥れたと話された。

古今の大きな文明は常に宗教性を伴っていたと教皇は述べ、教会のカテキズムにあるように「人間は神から、神のために造られたゆえに、人の心には神への熱望が刻まれている」と強調。

人間は自分の存在を問う本質的な疑問に自分の力だけでは答えることができないと知っており、完全な自立を自認している人も、結局は自分だけではどうにもならないという経験をすると教皇は話し、自分に足りないものを与えてもらうためには、外に向けて心を開き、自分から抜け出して自分の熱望を深く完全に満たしてくださる方、すなわち神に向かう必要があると説かれた。

そして、こうした神への憧れ、神ご自身が人間の中に置かれたこの熱望こそが、祈りの魂であると示された。

また、教皇は、人が祈る時にしばしば見られる「ひざまずく」という行為に注目され、ここに助けを求める者として、自分の限界を知りつつ神の前に身を置く人間の心が自然と表れていると話された。

人間は祈りを通して、自分について知る限りの認識を注ぎ出すと同時に、自分の全存在を神に向け、自分の熱望を実現し困難を乗り越えさせる助けとなる神秘と向き合うのであり、他者である神を見つめ、自分を越えてより遠くに向かうことが祈りの本質にあると教皇は述べられた。

さらに、教皇は、人を祈りという神秘的な出会いに呼ぶのは神ご自身であると話し、「神の愛の一歩が常に祈りの始まりにあり、人の歩み寄りがその答えとなる」「祈りとは神と人が互いに呼び交わす、一つの契約の出来事である」と説かれた。








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