2011-02-16 18:43:42

十字架の聖ヨハネをテーマに、教皇一般謁見


教皇ベネディクト16世は、16日、バチカンで水曜恒例の一般謁見を行われた。

謁見中のカテケーシスで教皇は、16世紀のスペインの神秘家、十字架の聖ヨハネを取り上げられた。

十字架の聖ヨハネは、同じくスペイン出身のアビラの聖テレジア(イエスの聖テレジア)と共にカルメル会の改革者として知られる。1926年、教皇ピオ11世によって教会博士に宣言された聖ヨハネは、その深遠な霊性から、神秘博士とも呼ばれている。

十字架の聖ヨハネは、1542年、アビラの近くフォンティベロスに生まれた。父はトレドの貴族出身であったが、身分違いの結婚のため勘当され、家は貧しかった。幼くして父を亡くし、家族と共にメディナ・デル・カンポに移り、修道院や病院で下働きをしながら、イエズス会の学校で学んだ。

1563年、メディナのカルメル会に入会し、サラマンカ大学で学問を修めた。1567年、司祭に叙階され、初ミサのためにメディナに帰った時、イエスのテレジアと出会った。

二人の出会いは双方にとって決定的なものであった。テレジアは男子修道会をも含めたカルメル会の刷新・改革計画への協力をヨハネに説いた。テレジアの考えに共鳴し、改革の支援者となったヨハネは、1568年、仲間と共にドゥルエロに跣足カルメル会の男子の最初の共同体を発足、原始会則の精神に立ち返った生活を行った。

しかし、カルメル会改革への参加は、ヨハネに大きな犠牲を払わせることになった。1577年、ヨハネは拉致され、不当な訴えのもとにトレドの修道院の牢獄に入れられた。すべてを取り去られ、精神的・肉体的に過酷な状態に置かれたこの幽閉生活の経験から、ヨハネは多くの詩を生んだ。そして、1578年に牢獄から命がけの脱出をした後、アンダルシア地方を中心に、跣足カルメル会の発展のために奉仕した。

1591年、メキシコの新しい管区に派遣されることになったが、旅行の準備中、重い病にかかり、厳しい病苦を大きな平安と忍耐をもって受け入れた後、同年12月に帰天した。1675年、教皇クレメンス10世によって列福、1726年、ベネディクト13世によって列聖された。

教皇は、十字架の聖ヨハネがスペイン文学において最高峰の詩人と見なされていることを紹介しながら、聖ヨハネの代表作として、「カルメル山登攀」「暗夜」「霊の賛歌」「愛の生ける炎」を挙げられた。

十字架の聖ヨハネの広く深い霊性神学を表すこれらの著書の中心は、神が私たちすべてを招いておられる完徳の状態、「聖性」に達するための確かな道のりであると教皇は強調。聖ヨハネはその完徳に達するための浄化、内的な無の必要性、物事への依存を絶ち、神の中に人生の中心と目的を据えることの大切さを説いていると話された。


今日を生きる「普通の信者」にとって、十字架の聖ヨハネの浄化と霊的登攀の道は手の届かないもののように思われるだろうかと述べつつ、教皇は、聖ヨハネは決して神秘の雲の間に浮いていた人ではなく、現実的な、非常に辛い人生を生き、修道仲間からも敵対され、心身共に恐ろしい迫害を受けた人であったことを回想。まさにこの辛い人生から彼は珠玉の作品を生んだと話された。

教皇は、十字架の聖ヨハネの生き方からも学ぶことができるように、キリストと共に歩む道は、すでに十分のしかかる人生の重荷をさらに重くするものではなく、それは逆に、私たちの重荷を助ける光、力なのであると、教皇は説かれた。







All the contents on this site are copyrighted ©.