2010-10-21 18:26:22

列聖式:聖人たちの人となり(2)


10月17日、バチカンでとり行われた教皇ミサの中で列聖された聖人たちの人となりを紹介する。

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聖メアリー・オブ・ザ・クロス・マッキロップ(オーストラリア1842-1909、修道女・聖心の聖ヨセフ修道女会創立者)

メアリー・オブ・ザ・クロス・マッキロップは、1842年、オーストラリアの現在メルボルンがある地域に生まれた。メアリーの両親はスコットランド系のカトリック信徒で、その家庭は貧しくとも信仰と愛に満ちたものであった。
19世紀、この地方はまだ驚くほど未開であり、農村を中心に広がる貧困、宗教上の差別、失業、就学の困難、司祭の不足、先住民族の置かれた状況など、多くの問題を抱えていた。
メアリーは家族を助けて、早くから教員として働いていたが、同時に修道生活への召し出しを感じていた。その頃、南東部で主任司祭をしていたウッズ神父と出会ったメアリーは、貧しい子どもたちに教育を保証するという夢を実現するため、特に農村で働く修道会の設立を共に計画した。
1866年、メアリーは仲間と一緒に南部ペノラの家畜小屋の中で教え始め、これが聖心の聖ヨセフ修道女会の誕生につながっていった。メアリーと同志たちは1867年、アデライデで誓願を立て修道女となった。
教育や社会福祉の制度・設備が皆無だった当事の貧しい開拓地帯で、修道女たちは無料で宗教や他の教科を子どもたちに教え、先住民族や高齢者の支援をした。学校や孤児院、女性を保護する施設の活動を続けながら、会員たちは他の入植地やニュージーランドにまで広がっていった。
次々に立ちはだかる困難や試練、また病苦の中でもメアリーは常に神の摂理に深く信頼し、貧しい人々への奉仕に生涯のすべてを捧げ、1909年に多くの人に惜しまれながら亡くなった。

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ジュリア・サルツァーノは、1846年、南イタリアのサンタ・マリア・カプア・ヴェテレに生まれた。4歳で父を亡くし、修道院に預けられ、16歳までそこで学び、やがて教職の免許を得た。
1865年に家族と共にナポリに移り、郊外カソーリアの学校で教えるようになった。彼女は青少年にカテキズムと信仰教育を施し、特に聖母マリアへの信心を養わせた。
ジュリアはイエスの聖心を愛し、キリスト者であるならばこれほど私たちを愛されたイエスの聖心を思わずにはいられないはずだと説いた。マードレ・ジュリアの教えの中心は、まさに生ける無限の愛を象徴するイエス・キリストの聖心なのであった。
「神はご自分を知らせ、愛させ、この世で神に奉仕させるために、私たちをお造りになった」と言うジュリアは、神を知らずして、人は愛することも奉仕することもできないと確信していた。そしてカテキスタの活動を、最も神に喜ばれ、教会に必要とされる仕事と捉え、1905年、聖心のカテキスタ修道女会を創立した。
カテキスタの育成とカテキズムに注目したマードレ・ジュリアのカリスマは特徴的で預言的なものであった。
カテキズムを通して「神に飢え乾くすべての人に福音を伝える」ことを自らの使命とした彼女は、ナポリの人々にドンナ・ジュリエッタと呼ばれ慕われながら、1929年、帰天した。

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バッティスタ・(カミッラ)ヴァラーノ(イタリア1458-1524、修道女・聖クララ会)

バッティスタ・カミッラ修道女は、1458年、中部イタリア・カメリーノでヴァラーノ領主の家に誕生した。幼少期を父親の宮殿で過ごし、あらゆる分野にわたって優れた教育を受けた。8歳から10歳の頃、説教師の話を聞いて心を動かされ、毎週金曜日に必ず主のご受難を黙想するという願を立てた。子供らしい単純さで立てたこの願を彼女は生涯かけて忠実に守り通し、それは彼女に言い尽くしがたい多くの恵みをもたらすと共に、深い霊的生活へと彼女を導いた。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                   18歳から21歳まで、苦しい霊的な戦いの時期を過ごし、この間、世間的な楽しみに惹かれると同時に、神の世界への憧れも強く、その両極端の狭間を行き来した。しかし、彼女は苦しめるキリストから決して離れることはなく、厳しい修徳の生活を始めたのであった。
数年間の厳しい準備期間を経て、キリストに全生涯を捧げ尽くすために、1481年、ウルビーノのクララ会修道院に入会。1483年の終わりに誓願宣立。1484年、8人の修道女たちと共にカメリーノに戻り、ヴァラーノ領主だった父親が準備してくれた修道院で、新しい共同体を開始した。
バッティスタは自叙伝の中で、彼女の受けた多くの神秘的な体験や、キリストに対する熱い言葉を残している。特にキリストがその受難の最中で体験した内的な苦しみに参与することを、彼女は強く願望した。彼女の霊性は、聖書や典礼を通した日々の黙想によって深められていった。
35歳で修道院長に選出されたのを初めに、その後数回再選され、修道女たちに適切な霊的指導を施した。
しかし、彼女にも霊的試練の時期が訪れ、1488年から1493年まで5年間、完全な霊的乾燥状態に陥り、それまで彼女にとって唯一の存在理由だったお方、キリストの完全な沈黙を体験した。その頃の苦しみは、彼女の自叙伝の中で明らかにされている。
さらに、その後、彼女の家族たちを悲劇的な事件に巻き込んだ政治的闘争で、彼女自身も多くの辛酸を味わった。彼女を高く評価していたユリウス2世が教皇位に就くに及んで、フェルモやサン・セヴェリーノ・マルケにも修道院を創立するよう派遣された。
修道女たちの指導、また霊的教説に関しても多くの優れた業績を残し、バッティスタは1524年、静かに天の御父のもとに戻って行った。
 







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