2009-12-26 16:53:35

主の降誕2009:教皇、世界に祝福とメッセージ「幼子イエスの愛と光の神秘を観想しよう」


主の降誕の大祝日を迎えた25日、教皇ベネディクト16世はバチカンの聖ペトロ大聖堂前から、ローマと全世界に向けて祝福とメッセージをおくられた。

ローマではここ数日不安定な天候が続いていたが、クリスマスの朝には澄んだ青空がのぞいた。聖ペトロ広場とその周辺は、教皇の言葉に耳を傾け祝福を受けようとする人々で一杯になった。

広場にはバチカンの楽団とイタリアのカラビニエーリ(憲兵隊)の楽団による演奏が響き、ベトレヘムの風景を展開した大型プレゼピオ(イエスの降誕の場面を再現した馬小屋の模型)に見入り、モミの木を囲む巡礼者たちの笑顔がクリスマスの喜びを伝えた。

教皇は正午に聖ペトロ大聖堂の中央バルコニーに立たれ、ローマと全世界に向けた祝福とメッセージ「ウルビ・エト・オルビ」をおくられた。

この中で、教皇は神の御心によって「私たちと共におられる神・エンマヌエル」としてこの世に下った幼子イエスの愛と光の神秘を観想するよう招くと共に、勇気をもってイエスを世界の人々に与えていくよう教会全体を励まされた。

そして教皇は日本語を含む世界各国の言葉で主の降誕のお祝いの言葉を述べられた。

教皇のクリスマス・メッセージは以下のとおり。

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全世界の兄弟姉妹の皆さん

「今日私たちの上に光が輝きわたった。私たちのために救い主がお生まれになったから」

今日のあかつきのミサの典礼は、すでに夜は過ぎ去り、昼になったことを私たちに思い起こさせます。ベトレヘムの洞窟から輝き出た光は、私たちを照らしています。

しかし、聖書も典礼も自然の光について語っているわけではありません。それはまったく異なる特別な光、ある意味で「私たち」のために向けられた光です。この同じ「私たち」のためにベトレヘムの幼子はお生まれになったのです。この「私たち」とは、教会のことです。長い間、希望のうちに救い主の誕生を待ち続け、そして、今日この出来事の永遠の現実性を神秘の中に祝う、キリストを信じる人々の大きな家族です。

最初、ベトレヘムのまぶねの周りでは、あの「私たち」は人間の目にはほとんど見えませんでした。ルカによる福音にあるように、マリアとヨゼフの他にそこにいたのは、天使のお告げを受けて急いで洞窟にやってきた幾人かの羊飼いたちだけでした。最初のクリスマスの光は、夜の闇における小さな灯し火のようなものでした。洞窟の中では「すべての人々を照らす」真の光が輝いていましたが、その周りは闇でした (ヨハネ 1,9)。

しかも、すべては単純さをもって隠れた方法で実現していました。それは救いの歴史において神がいつもとられる実現方法でした。神はいずれ大きく照らし出すため、初めはわずかな光を灯すことを好まれます。

真理は愛と同様、光が受け入れられるところで輝き始めます。そして、周りを照らし出しながら、あたかも触れていくかのように、その光に自分自身を開くすべての人々の心の中に輝き、やがて彼ら自身も光の源となっていくのです。

これこそあのベトレヘムの貧しい洞窟で始まり、世紀を通じ、やがて人類にとって、「民」となり、光の元となった教会の歴史なのです。今日も幼子に会いに行く人々を通して、神は世の闇に光を灯され、イエスの中に神の救いの力の現存の「しるし」を認めるように、そしてまた、キリストを信じる者である「私たち」、すなわち教会を全人類に広げていくよう人々を呼ばれるのです。

神の愛を受け入れる「私たち」はどこにでも存在し、たとえ困難な状況においても、そこにこそキリストの光は輝きます。教会は聖母マリアと同じように、恵みとしていただいたイエスを世界に与えます。イエスは人類を罪の奴隷状態から解放するために来られたのです。マリアが恐れなかったように、教会も恐れることはありません。なぜなら、この幼子こそその力だからです。

教会はイエスを自分のものだけにはしません。誠実な心でイエス求めるすべての人々、この世の謙虚な人々、苦しんでいる人々、暴力の犠牲者たち、平和を渇望するすべての人々にイエスを与えるのです。

今日、深刻な経済危機はもとより、倫理的危機に瀕し、さらに戦争や紛争の傷にまみれた人類家族のために、人間に対する真理と分かち合いの精神をもって、教会はあの羊飼いたちと一緒に「ベトレヘムに行こう」 (ルカ 2,15)、そこに私たちの希望を見出すことができるだろうと繰り返すのです。

この「私たち」としての教会は、イエスがお生まれになった場所、聖地で生きています。そして、そこの住民たちにあらゆる暴力と復讐の論理を捨て去り、新たな力と寛大さをもって平和な共存へ向けての道を歩むようにと招いています。

「私たち」教会は、中東の国々にも存在します。特に苦難の中にあるイラクをはじめ、この地域に生きるキリスト教徒たちの小さな群れのことを案ぜざるを得ません。彼らはしばしば暴力や不正に苦しみながらも、彼らを取り巻く紛争や拒否の論理に逆行し、平和的共存の構築に貢献しています。

教会としての「私たち」は、スリランカでも、朝鮮半島、フィリピン、他のアジアの国々でも平和と和解のパン種として活動しています。

アフリカ大陸において教会は、コンゴ民主共和国における様々な形の権力濫用の追放、ギニアやニジェールでの人権蹂躙や対話拒否からの開放、マダガスカルでの内部分裂の克服と相互受け入れの実現など、神への祈りの声を上げ、たとえ悲劇や試練や困難にあっても人々が希望に召されていることを伝え続けています。

ヨーロッパや北アメリカにおいても、「私たち」教会は、利己的なメンタリティーや技術至上主義の克服、まだ生まれ出ていない子供たちをはじめとするすべての貧しく弱い人々の尊重、共通善の促進のために働きかけています。

また教会は、中央、南アメリカの国々においても、いかなるイデオロギーも代わることの出来ない真理と愛を実現し、決して取り去ることのできない各自の人権尊重、全人格発展の必要性を叫び続け、一致の源である兄弟愛と正義を告げ知らせているのです。

教会はその創立者キリストの命に忠実に従い、自然災害に苦しむ人々、社会の貧富に関わらず困窮している人々にいつも連帯を示します。

多くの人々が飢えや民族闘争、環境悪化から逃れ、故郷を捨て外国に移住せざるを得なくなっています。教会はこの群れを前にして、絶えず人道的な受け入れを呼びかけています。

教会は迫害や差別や攻撃や無関心、時には敵意にもかかわらず、主であり師でもあるキリストと同じ運命を共有し、どこにおいてもその福音を告げ知らせるのです。

親愛なる兄弟姉妹の皆さん。すべての人々のためであるこの交わりの一員となるのはなんとすばらしい恵みでしょうか。それは三位一体の交わりです。この三位一体の神の御心から、「私たちと共におられる神・エンマヌエル」でおられるイエスがこの世に下られました。あのベトレヘムの羊飼いたちのように、感謝と驚嘆を込めてこの愛と光の神秘を観想しましょう。

主の御降誕おめでとうございます。







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