2009-04-11 16:58:03

聖金曜日:コロッセオで教皇による十字架の道行


キリストの十字架上での死を記念する聖金曜日の10日夜、教皇ベネディクト16世は、ローマ市内のコロッセオにおいて、十字架の道行をとり行なわれた。
十字架の道行きは、イエスが死刑の宣告を受けてから、十字架上で最後を遂げ墓に葬られるまでの過程を14の場面(留)に分けて黙想する信心業。

参加者の黙想を助けるためのテキストは、今年はインド・グワハティのトーマス・メナンパランピル大司教によって書き下ろされた。

ローマの遺跡群にそびえるコロッセオは、過去の迫害で殉教した多くのキリスト者たちを記憶する場所でもある。

ローマ教区の教皇代理司教アゴスティーノ・ヴァッリーニ枢機卿はじめ、信徒や修道者らの手で掲げられた十字架は、コロッセオから出発し、朗読や祈りを通してイエスの受難の各場面の黙想に人々を招きながら、向かい側の丘へと進んだ。

コロッセオ周辺には参加者らが手にするろうそくの火が広がった。パラティーノ遺跡を背景にした丘の上で、教皇は祈祷台につかれ、祈りを続けられた。

道行きの最後の場面で、十字架は教皇の手で高く掲げられた。

教皇は説教で、マルコ福音書の主の受難の場面の最後に記される「本当に、この人は神の子だった」(15, 39)という、イエスの処刑の一部始終を見守った無名の百人隊長の言葉を示され、十字架上で最も惨めな死を遂げた一人の人間の中に、神の子を認めたその信仰告白は驚くべきものと述べられた。

聖金曜日の今夜、この百人隊長のように十字架上のイエスを見上げ、人を殺すのではなく、自ら十字架にかかり死ぬことで世界を変えた神の子イエスの受難と死の神秘を、再び体験するよう教皇は促された。

十字架上のイエスのゆがめられた顔は、人間の死に至る苦しみをすべて背負いながら、傷つき、病み、見捨てられ、侮辱されたすべての人々を映し出していると教皇は述べ、イエスは流したご自身の血によって、私たちを死の隷属から解放し、孤独の涙を乾かしてくださると話された。

祈りのうちに主の復活の喜びと輝きを待ち望むよう呼びかけられた教皇は、「復活の主の光のもとに、よい復活祭を迎えてください」と人々に挨拶された。







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