2009-03-18 11:39:22

灰の水曜日:聖サビーナ教会における教皇の説教(2009.2.25)


2月25日、「灰の水曜日」と共に、教会暦は復活祭に向けての準備期間「四旬節」に入った。教皇ベネディクト16世は、同日、ローマ市内の聖サビーナ教会においてミサを司式され、この中で「灰の儀式」をとり行われた。

ミサ中の教皇の説教は以下のとおり。

親愛なる兄弟姉妹の皆さん
灰の水曜日を迎えた今日、典礼は私たちを四旬節の雰囲気の中に導いてくれます。 ミサ中朗読された聖書のテキストは、四旬節が何であるかを説明しています。教会は、私たちがどういう精神を持って生きていくべきかを教え、これから始まる四旬節の道のりを過ぎ越しの神秘にすでに照らされながら無事に歩み続けるための神からの援助を提供してくれるのです。

「今こそ、心からわたしに立ち帰れ」(ヨエル2,12)。この回心への呼びかけは本日の典礼のすべてを要約しています。入祭唱の中で、すでに主は悔い改める人の罪を赦されると言われています。集会の祈りにおいて、キリスト者は各自が真の回心の歩みを始めるよう祈ることが勧められています。
第一朗読では、ヨエル預言者が、心を込め、断食と涙と嘆きをもって、天の御父の元に立ち戻るよう励ましています。なぜなら 神は慈しみ・憐れみであり、怒るに遅く、慈愛に早く、下した災いを悔いられるからです。もし神の民が回心への招きを聞くなら、神の約束ははっきりしています。神はその憐れみに勝利を得させ、神の友人たちは無数の恵みで満たされるでしょう。
答唱詩篇では、ミサにあずかる人々は、その心を新しくし、その精神をも強めてくれるよう神に願いながら、詩篇50番を自分自身の言葉としています。
そして、福音書の中で、イエスは見栄や偽善、浅薄さ、自己満足に人々を導く虚栄の虫に警戒するよう喚起し、常に心を正すよう注意を促しています。イエスは同時に、天の御父との親しさをはぐくみ、意向の清さの中に成長する方法をも私たちに示してくれます。

聖パウロのコリントの信徒への手紙の「キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい」(2コリント5,20)という言葉は、特に使徒聖パウロ生誕2千年を記念する今年、私たちの心に響きます。使徒のこの招きは、四旬節の回心へのさらなる招きでもあるのです。聖パウロは、神の恵みの力、過ぎ越しの神秘の恵みを特別な方法で体験しました。パウロにはキリストの使者としての自覚がありました。ならば、彼以上に誰がこの内的回心の歩みを効果的に助けられる人がいるでしょうか。パウロはテモテに宛てた第一の手紙の中で書いています。「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られました。私は、その罪人の中で最たる者です」。そしてパウロは付け加えます。「私が憐れみを受けたのは、キリスト・イエスがまずその私に限りない忍耐をお示しになり、私がこの方を信じて永遠の生命を得ようとしている人々の手本となるためでした」(1,15-16)。実際、聖パウロは 自分が多くの人々の手本となるべき者であることを自覚していました。多くの人の手本になるということは、まさしく彼の回心、そして神の憐れみの愛による生活の変容に関することでした。

「以前、私は神を冒涜する者、迫害する者、暴力を振るう者でした。しかし、それは信仰のない時に、知らずにしたことなので、憐れみを受けました。こうして、私たちの主の恵みが、…私にあふれるほど与えられました」(1テモテ 1,13-14)。聖パウロのすべての説教、そして、何よりもまず、彼の宣教者としての存在そのものが、神の恵みの根本的な体験に由来するものです。「神の恵みによって今日の私があるのです。そして、私は使徒のだれよりも多く骨を折って働きました。しかし、働いたのは私ではなく、私と共にある神の恵みなのです」(1コリント 15,10)。これは彼の書いたもののどこにも見られる彼自身の自覚です。これは、地理的のみならず、霊的にも最も遠隔の地にまで、神が彼を押し進めることができたほど、力強い内的「梃子」として作用したのです。

聖パウロは、彼においてはすべてが神の恵みの業であると認めていました。しかし、洗礼において受けた新しい生命の恵みに自由に答えていく必要があるということも忘れてはいません。聖土曜日の徹夜ミサで朗読されるローマの教会へ宛てた手紙の第6章には、次のように書かれています。「あなたがたの死ぬべき体を罪に支配させ、その欲望に屈服してはなりません。また、あなた方の五体を、罪に仕えるよこしまなことのための道具にしてはいけません。かえって、自分自身を死者の中からよみがえったものとして神に献げ、また五体を義に役立つ道具として神に献げなさい」(ローマ6,12-13)。この言葉の中に、私たちは洗礼そのものに由来する四旬節のプログラムの内容そのものを見出します。一方では、その死と復活によって実現されたキリストの罪に対する決定的な勝利が語られ、もう一方では、私たちの五体を罪に提供しないように、すなわち罪に再び陥ることのないように注意を促しているのです。キリストの勝利は、弟子たちも同じ勝利を自分のものとすることを期待しています。このことは第一に、洗礼によって実現します。洗礼の秘跡を通して私たちはイエスに一致し、死者の中から帰還し生ける者となったのです。洗礼を受けた者は、キリストが彼の中で完全に支配できるように、キリストの教えに忠実に従わなければなりません。また地上のものに決して囚われることのないよう、霊的敵にいつも用心していなければならないのです。

しかし、どのようにして洗礼の召命を実現することができるのでしょう。また、どのようにして肉と霊との戦いにおいて勝利者となれるのでしょう。主はその福音の中で、今日私たちに有益な3つの方法を教えてくれます。それは祈りと施しと断食です。 聖パウロの経験とその書き物の中にも、さらに有益な方法が記されています。祈りに関して聖パウロは、祈りの中にあくまでも堅忍し、目覚めていること、常に感謝し、絶え間なく祈ることを勧めています。施しに関しては、コリントの教会に宛てた第二の手紙の8章から9章に記された貧しい兄弟たちのための施しについての箇所が重要です。しかし、聖パウロにとって愛徳こそが信者の生活の頂点であることを、ここで強調しなくてはなりません。コロサイの教会に宛てた手紙の中では、「これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛はすべてを完全させる絆です。」( 3,14)とも言っています。断食については直接には語っていませんが、聖パウロは主を待ちながら警戒して生きるよう招かれている人の特徴として、しばしば節制の必要性を繰り返しています(1テモテ 5,6-8; テトス 2,12)。興味深いのは、聖パウロが、競技場で競争する競技者の生活が絶えざる節制を要求することを挙げて、それを霊的競技に喩え、彼らは朽ちる栄冠を獲得するためにここまで節制するのだから、朽ちない栄冠を獲得したい私たちはなおのこと節制が必要だと強調しています(1コリント 9,25)。

これこそ、死を通過し、キリストと共に復活したキリスト者の召命です。キリスト者の生命はすでにキリストと共に神の中に隠されているのです。神におけるこの新しい生命を生きるために、神のみ言葉によって養われる必要があります。イエスは荒れ野での3つの試みの中のその第一で、申命記(8,3)を引用しながら「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る、一つ一つの言葉で生きるのである」(マタイ 4,4)と言っています。聖パウロはこのことをよく理解しました。ですから「キリストのみ言葉をあなたがたの中に豊かに住まわせ、すべての知恵によって教え合い、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心の底から神をほめたたえなさい」(コロサイ3,16)と勧めるのです。ここにおいても、聖パウロは何よりもまず生き証人です。聖パウロが書き残した数々の手紙は、パウロが実際に神のみ言葉によって生きていたことを雄弁に証しています。 その思想、行動、祈り、神学、説教、勧告など、彼の中にあるすべては、神のみ言葉の実りです。それは彼自身が若い頃からヘブライの信仰において、そして後に、死によみがえったキリストとの出会いによって、彼の目に完全に啓示されたその信仰において受け取ったものでした。そして、彼はその恵みを生涯にわたって宣教活動の中で語り伝え続けたのです。聖パウロにイエス・キリストにおいて語られた神の決定的な言葉、十字架の神秘である救いの言葉が啓示されたのです。ですから、彼は次のように結論できました。「この私には、私たちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。この十字架によって、世は私に対し、私は世に対して磔にされているのです」(ガラテヤ6,14)。パウロにおいて、み言葉は生命となりました。彼の唯一の誇りは、十字架に付けられそして復活されたキリストだったのです。

親愛なる兄弟姉妹の皆さん、回心と償いのしるしとして頭に灰を受けながら、神の言葉の人を生かす働きに心を開きましょう。この神のみ言葉により頻繁に耳を傾ける時です。厳格で償いを伴う生活の時である四旬節が、ますます私たちを回心と、特に最も貧しく必要に迫られている兄弟たちへの誠実な愛徳へと励ますものでありますように。神のみ言葉にいつも注意深く耳を傾けていた主のはしため聖母マリアが私たちを導いてくださいますように。こうして私たちは新たにされた精神で、復活の喜びを祝うことができるでしょう。 アーメン。







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