2008-10-29 18:37:44

教皇一般謁見・カテケーシス要約(2008.10.29)


親愛なる兄弟姉妹の皆さん

聖パウロについてのカテケーシスを続けながら、今日はパウロの教えにおけるイエスの十字架の中心的意味を考察しましょう。

パウロはダマスコ途上での栄光の主との出会いによって、イエスが彼とすべての人々のために死に、復活されたことを確信しました。

十字架の神秘は、神の慈しみ深い、救いの愛の力を彼に教えました。

パウロはコリントの信徒たちに対し、優れた言葉や知恵を説くためでなく、イエス・キリスト、それも十字架に架けられたキリストを説くために、彼らのもとへ行ったと述べています。(1コリント 2,2)。

十字架は、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものに見えても、それは神の知恵と力の啓示なのです。

十字架は、罪深い人類に対する神の愛の究極のしるしとして、無償で差し出された神の憐れみと救いの愛を受け取るよう、私たちを真の知恵へと招いています。

十字架上で、キリストは私たちの罪のために自らを献げられ(ガラテヤ1,4)、その御血によって贖いの犠牲となられました(ローマ3,25)。

パウロにとって十字架上の主における信仰は、キリストの死と復活を共にするために、「肉を欲望もろとも十字架につける」よう私たちを招くものなのです。(ガラテヤ5,24)。

十字架の弱さを受け入れることで、私たちに対する神の愛の力を知ることができるのです。

 







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