2008-06-05 18:25:04

ジェノヴァ司牧訪問における教皇の若者へのメッセージ


教皇ベネディクト16世は、5月17日、18日に、イタリア・リグーリア州のサヴォーナとジェノヴァを司牧訪問された。

18日、ジェノヴァ市内の広場で行なわれた教皇と若者たちとの出会いでは、非常に生き生きとした心の交流が行なわれた。

この集会で教皇が若者たちに向けたメッセージは以下のとおり。



「親愛なる若者の皆さん

残念ながら今日は雨が降っています。しかしこれを神の祝福のしるしとして受け取りましょう。雨は地を潤し、実りをもたらします。雨は渇ききった土地のような私たちの霊魂を恵みで潤し新たにする聖霊の象徴でもあります。

皆さんはジェノヴァの若さそのものです。皆さんとここでお会いできることを大変幸福に思います。 皆さん一人ひとりをキリストの心で抱きしめます。今日のこの出会いのために物質的にも、また聖体礼拝、徹夜の祈りなど霊的にもいろいろな準備をしてくださったすべての人に感謝します。こうして、皆さんは実際に聖霊に出会いに行き、聖霊の中に入り、今日祝われる至聖なる三位一体の大祝日に至ったのです。皆さんの歩んだこの準備の歩み、また皆さんの熱意に感謝します。この熱意こそ、期待と夢に満ちたあなた方若者たちの特徴です。

いずれ皆さんも年齢を重ねてこの若さから遠のいていくことでしょう。しかし、心はいつも若く保つべきです。若いということは素晴らしいこと、美しいことです。今日では、たとえ歳をとり往年の若さを見るからに失っていくとしても、皆が若いままでとどまり、若作りをしようとします。私は自問してみました。なぜ若さとは素晴らしく美しいことなのだろうかと。なぜ皆が永遠に若くありたいと夢見るのだろうかと。

そこには根本的な二つの理由があるような気がします。まず若さはその未来にすべてを所有しています。すべてが希望に満ちた未来形なのです。未来は多くの約束で一杯です。

一方、正直言って、多くの人々にとっては、未来は闇でもあり、不安に満ちたものでもあるはずです。 仕事を見つけることはできるだろうか。家は、愛は見つかるだろうか。自分には本当に未来があるのだろうかと。これらの不安の前では、未来はあたかも大きな虚無のように現れてきます。こうした未来の虚無への恐れから、今日少なからぬ人々が時間の流れを止めてしまいたいと望んでいるのです。そして、彼らはすぐに人生のすべての美を消耗し尽くしてしまいたいと望むのです。こうして本当の人生が始まるべき時に、ランプの油はすでに消耗し尽くされてしまっているのです。

ですから、たとえ何かを犠牲にしなければいけないとしても、未来に開かれた真の約束を選択することが重要です。神を選んだ人には、たとえ歳をとっても終わりも不安もない未来があるのです。したがって、よい選択をすることが大切です。未来を破壊してはなりません。

第一の根本的な選択は、その子イエス・キリストにおいて啓示された神でなければなりません。この選択の光のもとに、神は私たちと共に歩み、私たちを決して見捨てることのない友となります。この選択の中に、私たちは他の必要な選択の基準を見出すことができるのです。

若いということは善良でありまた寛大であるということです。再び強調しますが、イエス・キリストこそ善そのものです。あなたたちが知り、あなたたちの心が捜し求めているあのイエスです。イエスは十字架上でその生命を犠牲にするまでに、忠実で決して裏切ることのない友です。

今日のこの出会いのために用意されたTシャツの上に書かれたモットー「イエスの前にすべを開ききりなさい」という言葉通りに、イエスの愛にすべてを任せなさい。なぜならイエスだけがあなたたちの不安と恐れを解き、あなたたちの期待を満たすことができるからです。

イエスは、私たち一人ひとりのために、その生命を捧げてくれました。彼にあなたたちを裏切ることができると思いますか。あなたたちを間違った道に導くことができるとでも思いますか。イエスの道は生命の道です。たとえ登り道であり、険しい道であっても、霊魂を養う牧草地に導いてくれる道です。親愛なる友人の皆さん、それは私が皆さんに養うようにと招く霊的生活です。イエスは言いました「私は幹で、あなたたちは枝です。私の中にとどまる者、そして私がその中にとどまる者は、多くの実を結ぶ。なぜなら、私なしではあなたたちは何もできないからです」。

イエスは決してまわりくどい言い方はしません。いつもはっきりとして直接的です。すべの人々に彼を理解させ、その結果、なんらかの具体的な行動をとらせます。霊魂の生命は、神の見える顔であるキリストとの出会いです。

知らない人をどのように愛し、未知の人とどうやって友情を結べるでしょうか。知ることは愛することに導き、愛はますますよく知りたいとの望みを引き起こすのです。キリストに関してもこのとおりです。キリストと共に愛を見出すために、 私たちの生涯の友としてキリストを本当に見出すために、まず先に彼を知ることが必要です。

洗礼者ヨハネの言葉を聞いてキリストに従ったあの二人の弟子たちは、そっとキリストに尋ねました。「先生、どこにお住まいですか」。彼らはもっと近くからキリストを知りたかったのです。

イエス自身、弟子たちと話しながら、二種類の人々の区別をしています。「人々は私のことを誰だと言っているか」。この人々はキリストを遠くから知っている人々のことです。「あなたたちは私を誰だと言っているのか」。これは彼と共に生活し、御父との親しい対話やその祈りの証人になるほどに、キリストの個人的な生活の中にまで入り込み、キリストを近くから知っている弟子たちのことです。このように私たちにとっても、ただ単にキリストについて何かを聞いたというだけの表面的な知識にとどまらず、キリストとの真に人間的な関係を築き、本当に彼を知るというのは大切なことです。

このためには、主ご自身が私たちと語られる聖書、特に福音書の知識が必要です。そこに見出される言葉は、いつも易しいというわけではありません。しかし、それらの言葉の中に入り、その言葉と対話し、言葉の扉をたたき、主に「開けてください」と頼みながら、私たちは永遠の生命のみ言葉を見出すのです。

聖書におけるこの主との対話は、ただ単に個人的な対話にとどまっていてはなりません。絶えずキリストが現存されている教会の大きな共同体の中で、共同的なものにもしなければなりません。

教会の中にはいつもキリストが現存しています 。典礼行為の中にも、聖体拝領の中にも、赦しの秘跡の中にもキリストは現存し、私に主ご自身が「あなたを赦します」と言われるのです。

必要に迫られている貧しい人々を助けること、他人のために時間を割くことなどは大変大切なことです。 イエスを知るためには様々な方法があります。もちろん、聖人たちの生涯をたどることもその一つです。リグーリア地方、ジェノヴァにもたくさん の聖人がいます。彼らは皆イエスの真の御顔を見つけるのを助けてくれます。

私たち自身が親しくイエスを知ることによって初めて、他の人々にもこのイエスとの友情を伝えることができるのです。私たちは無関心に打ち克つことができます。何事にも無関心な人々は、神など必要ないと思っています。しかしながら、実際は皆その生活の中に何かを抱えていることを実感しているのです。人はただイエスを見出すことによってのみ、「これこそが私が期待していたもの」だったのだと気づくのです。私たちは本当にイエスの友人になればなるほど、他の人にも心を開くようになるものです。

この私たちの出会いの最後に、皆さんの代表の人々にミッションへの派遣のしるしとして福音書を渡す式が行われます。

親愛なる若者の皆さん、生活の場の中に、各自の小教区に、最も困難な地域に、町に出て行き、どこにでも世界の希望である主キリストを述べ伝えなさい。 生命の源泉である神から離れれば離れるほど、人は自分自身を見失い、人々との共存は難しくなり、社会は崩壊していきます。

若者の皆さん、一致してください。主キリストの熱烈な証人であるために、信仰の中に、キリスト教生活の中に生き成長するために、お互い助け合ってください。皆さん、一致してください。しかし自分たちの中に閉じこもることがあってはなりません。謙遜でありなさい。しかし臆病であってはなりません。単純でありなさい、でも同時に賢明でもありなさい。思慮深くありなさい。しかしあまり複雑であってもなりません。誰とでも対話しなさい。しかし自分自身であり続けなさい。

あなたたちの牧者たちとの交わりの中にいつも留まっていなさい。彼らは福音、聖体、神の赦しに大切な役割を背負う人々です。あなたたちにとって父であり、友人であり、旅路の同伴者です。あなたたちは彼らを必要とし、彼らもあなたたちを必要としています。皆さん一人ひとりがキリストに、教会に、しっかりと一致し続けるなら、偉大なことを成し遂げることができるのです。

私は今日このことを皆さんに言いたかったのです。シドニーの青年大会でまたお会いしましょう。

皆さんを聖母マリアにゆだねます。聖母マリアから、神にいつも素直に従う術を学んでください。そうすれば、イエスは皆さんの中に住みに来るでしょう。そして、あなたたちもイエスを、大きな喜びをもって多くの人々にもたらすことができるでしょう。

皆さん一人ひとりを心から祝福します。アーメン。」







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