2008-03-22 18:36:26

十字架の道行き・教皇説教(2008.3.21)


親愛なる兄弟姉妹の皆さん

今年もキリストの受難を信仰をもって思い起こしながら、その十字架の道行きを追体験しました。

私たちは救い主の死の苦しみを再び目の当たりにしました。キリストはこの地上における使命の頂点である、この大きな苦難を耐え忍ばなければなりませんでした。イエスは十字架上で死に、そして墓の中に横たわります。

人間の悲哀と宗教的沈黙の中に深くうち沈む聖金曜日は、黙想と祈りの沈黙の中に幕を閉じます。
聖ルカの福音で語られるイエスの十字架上での犠牲を見た人々のように、私たちも家路につきながら、今起こった出来事ことを思い、胸を打ちましょう。神の死を前にして、誰が無関心でいられるでしょうか。

兄弟姉妹の皆さん、私たちのまなざしはしばしばはかないこの地上の興味に向けられ、大切なものからそれてしまっています。しかし、今日、目をしっかりとキリストに向け、その十字架を黙想するためにしばらく留まりましょう。

十字架は不滅のいのちの泉です。十字架は正義と平和の学び舎です。十字架は赦しと憐れみの宝庫です。十字架は無限の自己奉献愛の証しです。この愛が、神を十字架の死に至るまで、私たちのように苦しみ傷つく人間となるよう、押しやったのです。

十字架上に釘付けられたイエスの両腕は、すべての人々のために開かれ、ご自分に近づくよう私たちを招きながら、無限の愛をもって私たちを受け入れ抱きしめてくれるのです。イエスは言われました。「私は地上から上げられる時、すべての人を自分のもとに引き寄せるであろう」(ヨハネ12,32)。

十字架の苦しみの道を通して、キリストの血によって贖われ、和解されたすべての時代の人々は、神の友人、天の御父の子となりました。

「友よ」、イエスは裏切り者ユダをこのように呼ばれ、回心への最後の劇的な呼びかけをします。主は私たち一人ひとりを友と呼ばれます。なぜなら、主ご自身がすべての人の真の友だからです。

残念ながら、人々は神がご自分の被造物に対して抱いているこの無限の愛の深さをいつも理解するわけではありません。神にとって、人種や文化の違いはありません。イエス・キリストは、全人類を神についての無知から、憎しみと復讐の連鎖から、罪の奴隷制から解放するために死なれました。

私たちはこれほどの恵みに対して、一体何をしたというのでしょうか。キリストにおける神のみ顔の啓示に対して、憎しみに打ち勝つ神の愛の啓示に対して、何をしたでしょうか。

現代の私たちと共に生きている多くの人々は、神を知りません。また、十字架に架けられたキリストの中に神を見出すことができません。多くの人々が愛を求めつつ、神を除外するような勝手な自由を追求しています。そして、多くの人々が神を必要としないとも考えています。

親愛なる友人の皆さん、今イエスの受難を共に生きた後、十字架上でのイエスの犠牲が私たち一人ひとりに問いかけることに、注意深く耳を傾けてみましょう。私たちの人間的な確信を脇に置きましょう。そして、イエスに心を開きましょう。

イエスこそ、愛する自由を私たちにもたらす真理です。恐れることはありません。主は死ぬことによって、すべての罪びと、すなわち私たちすべてを救われたのです。

使徒聖ペトロは書いています。「私たちが罪に死んで神との正しい関係に生きるために、キリストは十字架上で、私たちの罪をその身に負われました。その傷によって、あなたがたは癒されました」(1ペトロ2.24)。

これこそ聖金曜日の真理です。十字架上で救い主は、神に似たものとして創造され神の子となった人間本来の尊厳を、私たちのために取り戻してくださいました。十字架の前に今しばらく留まり、礼拝しましょう。

十字架に架けられた王、キリストよ、私たちが心から望んでいる喜びそのもの、無限に対して渇いている私たちの心を満たす愛であるあなたを、本当に知ることができるようにしてください。

私たちのために十字架上で死に、三日目によみがえられた神の子イエスよ、今晩、私たちはこのようにあなたに祈ります。アーメン。
 







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