2008-03-19 17:09:44

サン・ロレンツォ国際青少年センターでの教皇ミサ説教


教皇ベネディクト16世は、3月9日、サン・ロレンツォ・イン・ピシブス教会でミサを捧げられ、同教会附属の国際青少年センター創立25周年を記念された。以下はミサ中の教皇による説教。
 
親愛なる兄弟姉妹の皆さん

この素晴らしいロマネスク様式のサン・ロレンツォ・イン・ピシブス教会で、皆さんと一緒に国際青少年センター創立25周年を祝うことができるのは、私にとって大きな喜びです。毎金曜日の晩、この聖堂でローマの大学で勉強する世界中からの学生たちのためのミサが捧げられます。このミサは多くの学生たちにとって霊的拠点として重要な働きを持つばかりでなく、学生たちが教皇庁の枢機卿や司教たちと出会うためのよい機会を提供してくれます。また、ここでは世界五大陸からアド・リミナ訪問のためにバチカンにやって来る各国の司教たちと交流する機会もあります。私自身も教理省長官時代、このセンターの聖堂で何度もミサを捧げ、世界中からローマを訪れる多くの青年男女に出会うという素晴らしい経験をしました。

これほどにも温かく私を歓迎してくれた若者の皆さんに、私は心から感謝します。また、今日この素晴らしい儀式に参加するすべての人々にも心からの挨拶をおくります。

今日の福音について考察してみましょう。聖ヨハネによる福音の中でイエスは生命について語っています。人間の生命はこの世に限られる生物的な生命だけではなく、永遠に続く別の次元の生命でもあります。この永遠に続く生命のゆえに、人間生命はその始めから終わりまでいかなる状況にあっても人間としての尊厳を備え保っています。生まれる前の胎児であっても、また意識のない状態になったとしても、その人間生命の尊厳は失われることはないのです。生まれ出る前の胎児で、まだ完全な生命の表現に発展していない状態でも、新たな次元の可能性に開かれているのです。
人間は認識する存在です。もちろん、動物たちも認識します。けれども、動物たちの認識は彼らの生物的な生命に関わることに限られます。しかし、人間の認識はもっと先に行きます。人間はすべてを知ろうと欲します。存在とは何か、世界とは何かを、知りたいと望むのです。人間は無限の生命に渇いています。生命の源泉に到りつき、生命の泉で渇きを癒し、生命そのものを見出すことを望んでいます。人間はただ単に認識する存在であるだけではなく、友情と愛の交わりに生きる存在でもあります。知識と真理と存在という次元の先に、人間には関わりと愛の次元も存在します。ここで人間は生命の源泉に近づくことができるのです。人間は生命を豊かに受け、生命そのものを得るために、生命の泉から飲むことを希望しています。

すべての科学、特に医学は、生命のための大きな戦いだといえましょう。医学研究の目的は、つまるところ死に対抗するための追求です。もし、生物的な死に打ち勝つ薬が発見されたとしても、人間が本来その根源に抱いている永遠の生命に対する渇きは癒されることはありません。私たちはただ生物的な生命が長続きすることを望むのではなく、決して終わることのない生命そのものを得るために、生命の泉で飲むことを望むのです。これに関して今日の福音の中で主が語っています。「私は復活であり生命である。私を信じる人は死んでも生きる。そして永遠に死ぬことはないだろう。私は復活である」。生命の泉で飲むということは、無限の愛との交わりに入るということです。イエスと出会うことで、生命そのものと出会い交わり、生物的な生命の向こうにある真の生命へと、すでに死の敷居を越えたということです。
教父たちは、聖体を「不死の薬」と呼んでいました。なぜなら、聖体において私たちは復活されたキリストの身体との関わり、さらには交わりに入るからです。そうすることによって、私たちはすでに永遠の生命へとよみがえった生命の世界の中に入ります。今日の福音は聖体の秘跡についてのすばらしい解説です。聖体の秘跡の中に本当に生きるようにと励ましてくれます。こうして私たちは愛の中に変容され、愛の交わりの中に生きるのです。これこそが真の生命です。

主は聖ヨハネの福音の中で言っています。「私は生命を豊かにもたらすために来たのです」。豊かな生命とは、ある人々が考えているような、何でもあり、何でも所有し、何でもできるというような生命ではありません。もしそうなら、そのような生命では、死のため、生命のないもののために生きることになります。豊かな生命とは、真の生命との交わりの中にあるということ、無限の愛との交わりの中に生きるということです。 こうしてはじめて、私たちは本当に生命との交わりに入り、同時に他の人々にも生命をもたらす者となるのです。

十年以上もの長い間、ロシアで戦争捕虜になっていた人々がいました。その間、厳しい寒さと飢えに苦しみましたが、祖国に生還した時、彼らは言いました。「私たちは生き残ることができました。それは私たちを待っている人々がいるということを確信していたからです。ある人々が私のことを待っています。私は待たれている、必要とされているのです」。彼らを待っていたこの愛が、すべての悪や困難に打ち勝つための薬だったのです。主は私たち一人ひとりを待っています。主は私たちを待っているだけでなく、私たちと共におられ、私たちの手を引いて導いてくださいます。主の手を受け入れましょう。そして、真の、豊かな生命を生きることができるよう祈りましょう。







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