2008-01-31 16:47:00

教皇、教皇庁立ローマ大神学院を訪問、「信頼の聖母」の祝日を機会に


 


教皇ベネディクト16世は、1日、教皇庁立ローマ大神学院を訪問された。

教皇庁立ローマ大神学院は1565年に創立、伝統的にローマ教区の神学院として知られるが、他教区からの神学生も受け入れている。1913年より、ローマ教区司教座聖堂であるラテランの聖ヨハネ大聖堂に隣接した現在地に移された。

教皇のローマ大神学院の訪問は、同院の保護者である「信頼の聖母」の祝日を機会に、ヨハネ・パウロ2世以来毎年行なわれているもので、ベネディクト16世も2006年、2007年に同院を訪れ、神学生らと交流を持たれている。

教皇は同日夕方、神学院を訪れ、信頼の聖母に捧げられた礼拝堂で私的な祈りの時を持たれた後、神学生やその両親らと共に夕べの祈りの集いをとり行われた。

集いにおいて教皇が行なわれた講話は以下のとおり。

「親愛なる枢機卿、司教、司祭、そして神学生たち、またその家族の皆さん。

司教にとって、自分の神学校を訪問しその神学生たちに会うことは、いつも大きな喜びです。

今日、ローマ大神学校の保護者である「信頼の聖母」の祝日の前夜に、主がこの喜びを私にも与えてくれたことを心から感謝し、皆さんに心からの挨拶をおくります。

私たちは今、信頼の聖母の祝日の第一晩課を共に唱えるためにここに集り、聖パウロのガラテヤの教会への手紙の言葉に耳を傾けました。

聖パウロは「時が満ちた」という表現をしています。神だけが本当の意味で時の充満をもたらし、私たちにも時が満たされたことを体験させることができます。

神はその御一人子を遣わすことによって、時を満たし、その御一人子において、私たちも神の子となったのです。私たちは神の御子における神の子たちです。「道であり、真理であり、生命である」イエスにおいて、はじめて私たちは心からの期待を完全に満たす答えを見出すことができます。こうして恐れは消え去り、神を「アッバ」と呼ぶことができるほど、神に対する信頼が私たちの中でますます大きくなるのです。

親愛なる神学生の皆さん、まさしく神の子であるというこの大きな恵みが皆さんの人生を照らしたがゆえに、他の人々をも神の子としたいとの望みを皆さんは抱きました。

皆さんがこの神学校にいるのはこのためです。あなた方の子としての召命を発展させ、将来のキリストの使徒としての使命の準備をするためです。父である神との生活の喜びを味わうことによって、神の子イエス・キリストの福音の宣教者となる必要をますます強く感じ取るのです。

神学生の皆さん、あなたたちにこの奥深い事実に注意させ、またそれを愛させるのは、聖霊ご自身です。これらすべては、大きな信頼を引き起こさずにはいません。なぜなら、神からいただいたこの恵みは、驚愕すべきものであり、驚きと内的な喜びに満ちたものだからです。

皆さんはこの神学校で生活しながら、「信頼の聖母」という名前で崇敬される聖母が皆さん一人ひとりの生活において果たされる役割を理解することができるでしょう。聖パウロが言うように「神の子は女から」神の母マリアから生まれたのですから、聖母マリアは神の子であるあなたたちの本当の母でもあるのです。

親愛なるご両親の皆さん、皆さんはきっと自分たちの息子に起こったこと、また起こっていることに、びっくりしていることでしょう。皆さんは自分の息子たちのために、今彼らがこの神学校で準備しているのとは異なる、別の形の将来を描いていたかも知れません。きっと何度も息子さんたちの幼かった頃や、少年期のことを思い出してみたことでしょう。いったい彼らに何が起こったのでしょうか。 誰が彼らをこの道に導いたのでしょうか。どんな内的な光が彼らの歩みを照らしたのでしょうか。輝かしい約束に満ちた将来を捨て去り、なぜ神学校に入ることを選択したのでしょうか。きっと様々な思いが皆さんの脳裏を通り過ぎていくことでしょう。

皆さん、聖母マリアを見つめましょう。福音書は、聖母マリアもその子イエスについて多くを自問せざるをえなかったことを私たちに教えてくれます。聖ルカによる福音は「聖母がその御子について長く黙想していた」と伝えています。

息子たちの召命が、何らかの意味でご両親たちの召命となるのは、避けられないことだと言えます。この道を選んだ子どもたちの歩みを共にし、理解しようと努力することによって、親愛なるご両親の皆さん、あなた方自身も信仰が強められ新たにされるこの歩みに取り入れられていくのです。皆さんも、子どもさんたちの素晴らしい出来事に参与するものとなります。

事実、司祭の生活は、多くの人々の注意すら引かないかのように思われても、それは、実は世界にとって最も大切で必要なことなのです。それは、すべての人々が心から望んでいる生命の充満を示し、また実現する生活だからです。しかし、この生き方は、また多くの苦労を強いるものでもあります。またそうであるべき生活だともいえるのです。なぜなら、司祭とは、仕えられるためではなく仕えるために、そして、多く人々の贖いとしてその生命を捧げるために来られたイエスを模倣するために、呼ばれているからです。

親愛なる兄弟姉妹の皆さん、主が皆さんを呼んでいる素晴らしいこの使命のために、今過ごしているこの準備の時は、あなた方の将来にとって大変大切な時です。この時期は、特に次の二点から重要です。

まず、第一に、神学校生活はある意味で普通の生活からの分離をもたらします。聖書の中にも書かれているように、主が皆さんの心にひそかに語りかけることができるよう、一種の「砂漠」を作り出します。事実、主の声は大声ではなく、大変静かで、沈黙の声だとも言えましょう。ですから、その声をよく聞くためには、沈黙の雰囲気が必要なのです。神学校は毎日祈りのための場所と時間を提供してくれます。そして、典礼や神のみ言葉の黙想、さらに聖体礼拝などに細心の注意をはらいます。また同時に、皆さんは勉強のためにも多くの時間をさくよう要求されています。祈りながら、勉強しながら、皆さんは自分自身の中に「神の人」を作り出すことができるのです。人々は皆さんが司祭として誠に神の人であることを期待しています。

皆さんが数年間神学校で共に過ごすこの生活には、もう一つの面があります。司祭職への養成には、この共同体的な側面も大変重要です。使徒たちはキリストに従いながら、「一緒に」養成されました。皆さんの共同体の交わりは、ただ現在にとどまるだけではなく、未来にも関係があるのです。将来皆さんが携わる司牧活動は、一つのグループ、司祭団として一致して行なわれなければなりません。この司祭団は、また司教と一致して、キリスト教共同体の世話をするのです。ですから、この「家族としての生活」を愛しなさい。それは教区司祭の特徴でもあるべき、「秘跡的兄弟性」の前触れでもあります。

これらすべては神が皆さんを聖人になるよう呼ばれていること、そしてこの聖性こそ皆さんの司祭職の成功の秘訣なのだということを、思い起こさせてくれます。すでに今から聖性が皆さんのすべての選択、そして決定を規定していくものでなければなりません。この望み、毎日の働きを、「信頼の聖母」に託してください。「信頼の聖母」という心に安らぎをもたらすタイトルは、大天使ガブリエルが聖母に向け、また後にはしばしばイエスご自身が弟子たちに向かって言った「恐れることはない」と福音が繰り返す、あのことばに呼応します。主は「恐れることはない、私はあなたたちと共にいる」と言われます。

「信頼の聖母」の絵の中で、幼きイエスは聖母を指差しています。まるでイエスが「あなたの母を見つめなさい。恐れることはありません」と言っているかのようです。

親愛なる神学生の皆さん、開かれた心、透明な心、対話の精神をもって、神学校生活をおくってください。こうするならば、皆さんは自分の個人的な計画から解放されて、皆さんを呼んでくださっている方に、単純な心と謙遜をもって答えていくことができるでしょう。

親愛なるご両親や友人の皆さん、これからも皆さんの祈りと霊的・物質的両面にわたる援助を通して、これらの神学生たちを支えてください。

私も皆さんのためにいつも祈ることをお約束し、心からの使徒的祝福を与えます。」

 







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