2008-01-29 17:20:20

2008年四旬節教皇メッセージ・要約 「キリストはあなたがたのために貧しくなられた」(2コリント 8, 9)


四旬節はキリスト教徒であるということが実際に何を意味しているのかを深く反省してみるためのよい期間です。
また、四旬節は神の憐れみを再発見する時でもあります。そして、神の憐れみを再発見することは、私たちを兄弟たちに対してより憐れみ深い者となるよう促すのです。
四旬節中に具体的に勧められている行いは、まず、第一に祈りであり、そして断食、施しです。施しは、必要に迫られている兄弟たちを具体的に助けるための一つの方法です。また、施しは、私たちがこの世の物質的な富に過度に執着し、この世の富を偶像化するのを防ぐ助けとなります。施しの実践によって、私たちは神からいただいた富を他人と分け合うための心遣いをますます強化します。

現に私たちが所有しているこの世の富は、私たちの絶対的な所有物ではありません。この世の富は、すべての人々のものであるという原理に沿えば、 社会的な意味と価値をも持つものです (カトリック教会のカテキズムn.2404)。
使徒聖ヨハネもその手紙の中で言っています。「物を持っていながら、困っている兄弟を見ても、あわれみの心を閉ざす人に、どうして神の愛が留まりましょう」(1ヨハネ 3,17)。国民の大部分がキリスト教徒である国々においては、富を分け合うということには社会的な意味合いもあります。それは愛徳の業である以前に、正義による義務でもあるのです。

福音的施しは単なる人道的な業ではありません。それは個人的な利益や他人からの評価の追求の隠れ蓑であってはなりません 。隣人を助けようとの誠実な決心は、私たちのために十字架上で生命を捧げることによってすべてを与えつくされたイエス・キリストにならって、「隠れた方法」で実行されなければなりません。

施しは、他人に私たちを近づかせることによって、神にも近づかせてくれます。そして、神への回心、さらに神と兄弟たちとの和解の手段ともなり得るのです。施しは、物資的な枠を乗り越え、私たちの存在そのものの真実を表すものでもあります。事実、私たちは私たち自身のためだけに創造されたのではなく、神と兄弟たちのために創造されたのです(2コリント 5,15) 。施しは、人生の充実は愛から来るものであり、神との和解へと導くという事実を体験させてくれます。なぜなら、使徒聖ペトロがその手紙の中でも言っているように「愛は多くの罪を覆うからです」(1ペトロ 4,8)。

ですから、四旬節の施しは、私たちのキリスト者としての召命をより深めるための手段だと言えます。愛は私たちの生活そのものを全面的な奉仕とすることによって、各自が置かれている条件や可能性に沿って、どのような奉仕ができるか、実に様々な 方法を見出させてくれます。

個人的にも、共同体としても、その名の中に真の生命があるキリストにしっかりと一致する努力を続けることによって、愛の中に成長し、貧しい人々の中にキリスト自身を認めるよう、そしてキリストの愛の証人となるように、四旬節はすべての人々を招いているのです。







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