2008-01-16 17:32:46

教皇、ローマ大学サピエンツァ訪問を延期


バチカン広報局は、15日、2日後に予定されていた教皇ベネディクト16世のローマ大学ラ・サピエンツァ校の訪問の延期を発表した。

その声明によれば、教皇は17日に同校を訪問することになっていたが、「ここ数日の出来事を考慮し、訪問の延期が適当である」との判断に至った。しかしながら、予定されていた講演の原稿は同校に送られるという。

このたびの訪問は、同大学の総長らの招きによるもので、2007-2008年度の開講式典に続く行事として予定されていた。特に今年の同大の開講式は、「死刑廃止への取り組み」をテーマに掲げていることから、日頃命の神聖さを説く教皇の言葉に注目が集っていた。
教皇は講演のほか、大学の礼拝堂訪問を行なうことになっていた。

一方、同大の物理学部の教授の一部は総長宛に教皇招待の是非を問う書簡を送った。この書簡をきっかけに、ここ数日一つの学生グループが教皇訪問に対する抗議行動を起こしていた。

これらの動きに対し、総長はバチカン放送局のインタビューで、大学側は平和の使者としての教皇の訪問を喜びをもって待ち望んでいると述べると共に、前記の書簡に署名した教授ら67名は4500人以上の同大教授陣の中でごく少数であること、同校は非常に大きいためにその文化的背景も多様であり、これを機会にすべての人を対話に招きたいと話していた。

しかし、同日、前述の学生グループが大学理事会室を占拠するなど、大学内の緊張と分裂が高まったため、今回の教皇の訪問は先送りすることが適当とされた。

教皇の大学訪問延期の知らせは、イタリア国内に大きな反響を巻き起こした。

イタリア司教協議会は、この事態は「非民主主義的な不寛容、文化的閉鎖の表れ」であり、少数によるイデオロギー的暴力が、大学側の招待に快く応えた教皇の訪問を不可能にしたことは遺憾であるとし、大学がその教育・文化機関としてのアイデンティティーをもって、文化比較と人と社会に奉仕する本来の姿を取り戻すことを希望している。

また、カトリック系通信社SIRは、「教皇の沈黙は言葉である。我々はこの沈黙を心に留めなくてはならない」と、この出来事について考察に招いた。

イタリアのジョルジョ・ナポリターノ大統領は、真摯な遺憾の念を表した書簡を教皇に送り、「自由で平和的な比較・対話にふさわしくない不寛容は許しがたいもの」と記した。

ロマーノ・プローディ首相も教皇の大学訪問を延期に至らせた「この不寛容の出来事を断固非難する。対話に開かれた場である大学で教皇が発言できないとは、とても容認しがたい」と述べるなど、学問の殿堂といわれる大学においてあるべき活発な学問・文化の比較と対話の機会が失われたことに対し、真の言論の自由と文化の多様性、民主主義の否定を懸念する声が政界・文化界から相次いだ。

なお、今回、教皇のローマ大学ラ・サピエンツァ訪問に抗議した側は、反対理由の一つとして、教皇がガリレオ裁判を正当化していると述べ、教皇が枢機卿であった1990年2月15日、まさに同大で行なった講演の一部を取り上げている。

これに対し、バチカンのオッセルバトーレ・ロマーノ紙は、「ラッツィンガーがガリレオを擁護した時」というタイトルの記事で、抗議者らが教皇招待反対の根拠として挙げる同講演中の一節、「ガリレオの時代、教会はガリレオ以上に理性に忠実であった。ガリレオ裁判は理にかなった正当なものであった」という部分は、教皇が科学哲学者ポール・ファイヤアーベントの言葉として引用している部分であることを指摘。そして、教皇がこの講演でむしろガリレオ的理性をポスト・モダン文化の懐疑主義・相対主義から擁護することを意図していたことを明示した。学界に属する立場の人々が、講演内容全体を深く読み込むことなく、この部分を引用と確認しないで不注意に、あるいは知りながらも故意に教皇の言葉として取り上げていることに対し、同紙は大きな疑問を呈している。

また、バチカン放送局もこの問題と関連し、教皇が2006年4月6日、世界青年の日を準備する若者たちとの対話集会で語ったガリレオに対する賞賛の言葉を紹介。「偉大なガリレオは、神は自然という本を数学的な言語で書かれた、と言っています。彼は、神は2つの本を私たちに贈られたと確信していました。それは、聖書と、自然です。自然の言語とは、これは彼の確信ですが、数学でした。従ってそれは神、創造主の言語なのです」と述べ、科学と信仰の調和の追求ということについて、若者たちに偉大なカトリック科学者ガリレオの姿を提示していることを指摘している。







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