2008-01-03 16:45:14

2007年降誕祭:教皇クリスマスメッセージと、降誕祭徹夜ミサ説教
(2007.12.25)


2007年教皇クリスマスメッセージ「ウルビ・エト・オルビ」

「私たちのために聖なる日が到来しました」
皆、主を拝みに来てください。今日、輝かしい光が地上に降りてきました。

親愛なる兄弟姉妹の皆さん、「聖なる日が私たちのために到来しました」。
偉大なる希望の日です。今日、人類の救い主が誕生されました。その誕生を心待ちにするすべての人々に希望の光をもたらす一人の幼子の誕生です。
ベトレヘムの洞窟でイエスが誕生された時、地上に偉大な光が現れました。大きな希望が待ち焦がれていた人々の心の中に入り込みました。
主の御降誕を祝う今日の典礼は「偉大な光が現れた」と歌います。確かにこの世の感覚によれば、それは偉大な光とは言えないかもしれません。その光を最初に見た人々は、マリアにヨゼフ、そして数人の羊飼い、そして次に東方からの博士たち、シメオン老人、女預言者アンナ、すなわち神から特別に選ばれた人々だけでした。あの聖なる夜は誰からも知られず、沈黙の中にありました。けれども、その中で、すべての人のために決して消えることのない輝かしい光が灯されたのです。この世に幸福をもたらす偉大な希望が到来しました。「神のみ言葉は人となりました。私たちはその栄光を見たのです」。

「神は光です。神の中に闇はありません」と聖ヨハネは言っています。創世記には世界の始まりについて次のように書かれています。「はじめに神は、天と地をつくられた。地は形なくむなしいもので、闇は深淵をおおい、水の上に神の霊がただよっていた。神が『光あれ』とおおせられた。すると光があった」。
神の創造の力を帯びた言葉は光であり、生命の源です。万物はみことばによって創られました。 存在するありとあらゆるもののうちに、ひとつとしてかれによらずに創られたものはありません。ですから神によって創られたものはすべて根本的に善いものであり、存在そのものの中に神の刻印、その光の火花を持っているのです。けれども、イエスがおとめマリアからお生まれになった時、光そのものがこの世に来ました。使徒信条の中で私たちは「神からの神、光からの光」と宣言します。神はイエスにおいて神であることを保ちながら、もともと自分のものではなかった姿をとられました。聖アウグスティヌスはその説教の中で「神の全能は幼子の体の中に入りました」と言っています。人間の創り主であるお方が、この世に平和をもたらすために人となられました。このために降誕祭の夜に天使の群れは「天のいと高きところには神に栄光、地にはみ心にかなう人々に平安」と歌うのです。

「今日輝かしい光が地上に降りてきました」
キリストの光は平和をもたらす光です。降誕祭の深夜ミサの典礼は「今日、真の平和が天から私たちのところに降りてきました」という賛歌で始まりました。キリストにおいて現れたあの偉大な光だけが、人々に「真の」平和をもたらすことができるのです。ですから、すべての人々がこの光を受け入れ、ベトレヘムで私たちの一人となられた神を受け入れるようにと呼ばれています。

これが主の降誕です。
2千年間以上にわたって、すべての時代、すべての場所の、あらゆる男女に語りかけてきた歴史的な出来事、愛の神秘です。平和をもたらすキリストの偉大な光が輝く聖なる日です。もちろん、この光を認め受け入れるためには、信仰が必要です。謙遜が必要です。主の言葉を信じ、まぶねに屈み、自分の子を第一に礼拝したあのマリアの謙遜、信仰に満ちた勇気を持ち自分自身の評判よりも神に従うことを選んだ義人、ヨゼフの謙遜、天のみ使いの知らせを受け入れ急いで洞窟に走り、そこに生まれたばかりの幼子を見出し、驚きに満ちながらも神を賛美し、その幼子を礼拝した羊飼いたち、貧しく名もないあの羊飼いたちの謙遜が必要です。小さく貧しい者たち、彼らこそ、昔も今も降誕祭の主役なのです。彼らこそ、神の歴史の常なる主役であり、神の正義と愛と平和のみ国の疲れを知らぬ建設者たちなのです。

イエスはベトレヘムの夜のしじまの中に生まれ、優しい手に包まれ受け入れられました。今日、この私たちの降誕祭に、救いをもたらす贖い主の誕生の喜ばしい知らせが響きわたり続ける中、誰が心の扉を開き、彼を受け入れる用意があるでしょうか。キリストは、この時代を生きるすべての人々、私たちのためにも光をもたらしに、私たちのためにも平和を与えに来られるのです。誰が不確かで不安なこの夜に、祈りのうちに目覚めているでしょうか。一体、誰が信仰の火を灯し続け、新しい日の曙を待ち続けるでしょうか。誰が彼の言葉に耳を傾ける時間を持ち、その愛の魅力に惹きつけられていくでしょうか。
そうです。彼の平和のメッセージはすべての人々のためです。彼は救いの確かな希望として、自分自身をすべての人々に捧げるために来られるのです。

悲惨と不正と戦争の闇の中にあるすべての人々のために、また、健康や教育、安定した仕事、市民としての完全な参政権、あらゆる圧迫や人間の尊厳を損なう状態からの解放などへの、正当な渇望を否定されているすべての人々のために、あらゆる人を照らすために来られるキリストの光が再び輝き、慰めをもたらしますように。耐え難い苦しみをもたらす血なまぐさい武力闘争や、テロリズム、あらゆる暴力の犠牲者たちは、いつも特に弱い立場にある子ども、女性、そして老人たちです。一方で、人種、宗教、政治的信念の違いから来る緊張関係、政治的不安定、敵対意識、様々な対立、不正などが多くの国々を内部から引き裂き、国際関係をますます悪化させています。今日の世界では、移民や難民、避難民の数がますます増加しています。その原因は、しばしば憂慮すべき自然環境破壊に由来する、自然災害にもあります。

この平和の日に、思いは特に武器の轟音の止むことのない地方に向かいます。苦悩に満ちた地、ダルフール、ソマリア、コンゴ民主共和国北部、エリトリアとエチオピアの国境地帯、中東全域、特にイラク、レバノンや聖地、そして、アフガニスタンにパキスタン、スリランカ、バルカン地方、さらに危機に面しながらも多くの場合忘れ去られた他の地域にも私たちの思いは向かいます。幼きイエスが試練の中にある人々を支え、政治責任者たちに人道的で正義にかなった永続的な解決策を求め見出す知恵と勇気を与えてくださいますように。今日の世界に顕著な意義と価値観に対する渇望、全人類の生活と切り離すことのできない平和と幸福の探求、貧しい人々の期待に、まことの神でありまことの人であるキリストはその誕生をもって答えくださいます。一人ひとり、そして国々が、キリストを認め、キリストを受け入れることを恐れませんように。キリストと共に「輝かしい光」が人類全体を照らしてくれます。キリストと共に終わることのない「聖なる日」が始まります。この降誕祭がすべての人々にとって喜びと希望と平和の日となりますように。

「皆、主を拝みに来てください」
マリアとヨゼフと羊飼いたち、東方からの博士たち、そして主の降誕の神秘を受け入れ、生まれたばかりの幼子イエスを慎ましく礼拝する者たちの、世紀にわたる数限りない群れと共に、世界の兄弟姉妹の皆さん、私たちもまた、この日の光があらゆるところに届くままにしましょう。この光が私たちの心の中に浸透し、家々を照らし暖め、私たちの町に希望を、世界に平和をもたらすように努めましょう。これが、私のことばに今耳を傾けてくださっている皆さんへの私の心からの願いです。幼きイエスの光が皆さんの生活からあらゆる闇を取り除き、一人ひとりを愛と平和で満たしてくださるよう、御子に謙遜で信頼に満ちた祈りを捧げます。
キリストにおいてその憐れみのみ顔を輝かせてくださった主が、皆さんを幸福で満たし、その愛の使者としてくださいますように。
ご降誕祭おめでとうございます。



2007年降誕祭徹夜ミサ・教皇説教

親愛なる兄弟姉妹の皆さん

「マリアはお産の日が満ちて、男の初子を産んだ。そして、その子を産着にくるみ、かいばおけに寝かせた。宿屋には、彼らのために場所がなかったからである」。

この福音書の言葉はいつも私たちの心を打ちます。ナザレで天使が告げた「あなたはみごもって男の子を産むでしょう。その子をイエスと名づけなさい。その子は偉大な者となり、いと高き方の子と呼ばれます」という言葉の実現の時が来たのです。

イスラエルが何世紀にもわたる暗い時期を経て待ち続けたその時が、とうとうやって来ました。この時はまた、全人類もはっきりした形ではないにしても待ち続けていた時だったと言えます。またこの時とは 、神が人類に目を向け、その隠れ家から出て、世界をよりよく、すべてを新たにするその時だったのです。

聖母マリアが、どれほどの内的準備と愛をもって、この時に向かって行ったかが容易に想像できます。このことに関して、短い言及を福音書の中に見出すことができます。「マリアは幼子を産着にくるんだ」というこの言葉は、わが子の誕生のために聖母がどれほどの聖なる喜びと沈黙と熱意の中に準備していたかを垣間見させてくれます。

幼子をしっかりと包むための産着の準備も整いました。けれども宿屋には場所がありません。ある意味で人類はいつも神の到来を待ち、神が近づいてくれるのを期待しているといえましょう。けれどもいざその時が到来すると、神のためにはどこにも場所がないのです。人類は、神のためにも、貧しい人々のためにも、隣人のためにも、他人のためには何もまったく残らないほど、自分自身のことにかかりきりで、時間も空間もあらゆるものを自分のためだけに必要としています。人間は豊かになればなるほど、すべてを自分自身で一杯にしていきます。こうして他人の入る余地はますますなくなっていくのです。

聖ヨハネはその福音書の中で本質に迫りながら、聖ルカが簡単に伝えているベトレヘムの状況をより深く説いています。「みことばは自分のところに来たが、自分の民は受け入れなかった」。まず第一にベトレヘムが関わっています。ダビデの子はご自分の町に来ます。しかし、馬小屋の中で生まれなければなりませんでした。なぜなら彼のために宿屋には場所がなかったからです。イスラエルも関わっています。使者は自分のところに来ましたが、自分の民は彼を受け入れませんでした。そして実際には全人類にも関係があります。世界を創られたお方、創造主でもあるみことばが、この世に来られました。けれども誰も彼に耳を傾けず、受け入れることもしませんでした。

これらの言葉は、最終的には私たち個人にも、また社会全体にも関わる言葉です。私たちの言葉、私たちの愛を必要としている隣人のために、私たちにはまだ時間があるでしょうか。 助けを必要としている苦しめる人のためにはどうでしょうか。神のために時間と場所があるでしょうか。神はまだ私たちの生活の中に入って来ることができるのでしょうか。神は私たちの中に場所を見つけられるでしょうか。私たちの思考や行動、そして生活のすべての場を、もう私たち自身のためだけに占めてしまっているのではないでしょうか。

ありがたいことに、福音の中にはあまりよくないことばかりが書かれているわけではありません。聖ルカの福音書の中に、聖母マリアの愛、聖ヨゼフの忠実、羊飼いたちの徹夜とその大きな喜び、そして聖マタイの福音書の中では、遠く東方からやって来た賢者たちの訪問に出会います。またさらに聖ヨハネの福音書の中では、次のような言葉も読まれます。「みことばは、自分を受け入れた者に、神の子となる資格を与えた」。

みことばを受け入れる者たちは、確かに存在します。こうして神の子の降誕のメッセージは、閉ざされた世界の闇を私たちに認識させ、そうすることによって、私たちが毎日見ている現実を明らかにしていきます。けれどもそれはまた、神が外に追い出されたままではいないということも表しています。神はたとえ馬小屋から入り込んでくるのであっても、何とか場所を見つけます。彼の光を見、そしてそれを伝達していく人々も存在します。福音の言葉を通して、天使は私たちにも話しかけます。そして聖なる典礼において、救い主の光は私たちの生活の中にも入ってくるのです。もし私たちが羊飼いあるいはあの賢者たちであるのなら、主の光とそのメッセージは、自分の欲望や利益の殻の中から飛び出し、主に出会い、主を礼拝しに行くべく歩み始めるよう促すのです。真理と、善と、キリストと、疎外されているすべての人々への奉仕へと、世界を大きく開き、この人々の中で私たちを待っておられる主を礼拝しましょう。

中世後期、また近代初期に製作された馬小屋の背景に、しばしば崩れかけた宮殿などが表現されています。昔はきっと豪華な宮殿だったのだろうと、今日でも十分想像できるほどです。けれども今では廃墟となり、壁は崩れ、家畜小屋となってしまいました。主のご降誕の馬小屋のこのような表現には、歴史的な根拠はまったくないとしても、その中にはご降誕の神秘に隠されている何らかの真理が表わされています。

永遠に存続すると約束されたダビデ王の王座は、今は空です。他の人々が聖地を支配しています。ダビデ王の子孫であるヨゼフも単なる職人です。宮殿は単なる小屋に成り下がりました。しかし、ダビデ王自身も元をただせば、一介の羊飼いにすぎませんでした。サムエルが王として塗油するために彼を捜し出した時、こんな羊飼いの少年がイスラエルの約束を実現に導くなどと想像するのも不可能なくらいでした。

まさしく出発点であったあのベトレヘムの馬小屋で、まぶねに横たわる産着に包まれたあの幼子において、ダビデの王権は新たな方法で再建されるのです。この王が世界をご自分に引き寄せる新しい王座とは十字架です。新しい王座、十字架は馬小屋での新たな始まりに呼応します。真のダビデの宮殿、真の王権は、まさしくこのように建設されるのです。

この新しい宮殿は、人々が宮殿や王権を考える時に普通に想像するものとは、あまりにも異なっています。それはキリストの愛に捕らえられ、キリストと共に一つの身体となり、新しい人類となるすべての人々によって構成される共同体です。十字架からくる力、自分自身を捧げ尽くす愛の力、これが真の王権です。馬小屋は宮殿となります。まさしくイエスはここから始まって、大きな新しい共同体を形作るのです。イエス誕生の際に、天使たちは歌いました。「天のいと高きところには神に栄光、地においてはみ心にかなう人々に平安」。み心にかなう人々とは、自分の意思を神の意思の中に置き、こうして神の人、新しい人、新しい世界となる人々のことです。

ニッサの聖グレゴリオは、降誕祭の説教の中で 「みことばは人となり、われわれの中に宿った」という聖ヨハネの福音の降誕のメッセージから出発して、同じような見解を発展させています。.聖グレゴリオは宿ったという言葉を、どこもかしこも苦痛と弱さにさらされ傷み弱ったわれわれの身体の中に宿ったと解釈しています。罪によって引き裂かれ歪められた全宇宙にも適用しています。今日の世界で現に起こっているエネルギーの乱用や利己主義的な状況を見たら、いったい何と言うことでしょう。カンタベリーのアンセルモは、不安に満ちて将来に明るい見通しも持てないこの世界で、私たちが今日日常的に目にしていることを、預言的に言い表しています。「世界は神を賛美する人々への奉仕のためにあるにもかかわらず、すべては死んだようになり、その尊厳を失ってしまいました。偶像に仕えるために創られたのではないのに、世界の諸要素は押しつぶされ、それらを偶像の奴隷とする人々の濫用のために本来の輝きを失った」。

このようにグレゴリオの見方からすれば、降誕のメッセージにおける馬小屋は、踏みにじられた地を表しています。キリストはどんな宮殿でも建て直すわけではありません。キリストは創造界や宇宙にもともとの美しさと尊厳を取り戻します。これが主の降誕によって開始され、天使たちを歓喜させるのです。

まさしく神に向かって開かれたという事実から、神の意思と人間の意思の調和の中に、新たに自分自身の輝きを獲得し、この地はもともとの状態に戻され、また天と地の一致において、その本来の美と尊厳をも取り戻したのです。 ですから降誕祭はこの意味で、再建された創造の祝日とも言えるのです。

この見方から出発して、教父たちは降誕の聖なる夜の天使たちの賛歌を解釈します。この歌はいと高き所と低い所、天と地が再び一致させられたこと、人間が再び神と一つになったことを寿ぐ歓喜の表現です。それは 教父たちによれば、天使たちの賛歌の一部を構成しています。人々は皆共に歌うことができます。そして宇宙の美はこのようにして賛歌の美しさの中に表現されているのです。これもまた教父たちの論ですが、典礼聖歌というものは、そのものとして天のコーラスとの合唱であることからして、特別な価値と尊厳とを備えています。神の音楽をかもし出すことによって、私たちに天使らの歌を聴けるようにしてくれるのは、イエス・キリストとの出会いです。この真の音楽は、共に歌い共に聞くという特徴を失う時、真の音楽性も損なわれます。

ベトレヘムの馬小屋の中で天と地は触れ合います。天は地上に降りてきました。ですからそこからすべての時代のために光が輝き、喜びの火が灯され、歌が生まれます。ご降誕についてのこの私たちの黙想の終わりにあたって、聖アウグスティヌスの素晴らしい言葉を引用したと思います。主の祈りの「天におられる私たちの父よ」という言葉を解説しながら、この「天」と一体何なのだろうかと問いかけます。天とはどこなのか。驚くべき答えが続きます。

“…「天におられる」とは、「聖人たちや義人たちの中におられる」という意味です。天とは宇宙の最も高い物体を指します。しかし物体であるかぎり、存在するために場所を必要とします。けれども、もし神の場は世界の最も高いところである天であると考えられるのなら、小鳥たちは私たちよりも幸運だと言えるでしょう。なぜなら、小鳥たちのほうが私たちよりもっと神に近く生きることができるからです。しかし、「主は高い所や山の上に住んでいる者たちの近くにいる」とは書かれておらず、かえって、「主は痛悔する者たちの近くにおられる」と書かれています。これは謙遜を意味する表現です。 罪びとが地と呼ばれるように、反対に正しい人を天と呼ぶことができるでしょう。”

天は空間としての地理ではなく、心の地理に属します。降誕の聖夜に神の心は馬小屋まで身をかがめてくれました。神の謙遜が天です。もしこの謙遜に出会いに行くなら、私たちも天に触れることになります。そこで地も新たになります。この聖なる降誕の夜に、馬小屋に横たわる幼子に向かって、私たちもあの羊飼いたちの謙遜をもって歩み始めましょう。神の謙遜、神の心に触れましょう。そうするならその喜びが私たちに触れ、この世界をより輝かしいものにしてくれるでしょう。アーメン 。







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